ヒトラーはなぜ600万人ものユダヤ人を死に至らしめたのか、 その理由を追究する。2017-5-19 公開

 

 

 

 

第二次大戦時、ナチはヨーロッパにおいて600万人ものユダヤ人を死に至らしめた。ナチの手中に落ちたユダヤ人のほとんど全員が殺された。年齢は考慮されなかった。幼い者への慈悲は示されなかった。ナチはヨーロッパをユダヤ人のいない地にしようとした。ヒトラーはこれを、ヨーロッパのユダヤ人を「絶滅」させる、と表現した。ナチは何ゆえにユダヤ人なる存在をヨーロッパから消し去ろうとしたのであろうか。これがこの作文の取り組むテーマだ。 

 

 

本題に入る前に予備知識としていくつか押さえておこう。 

 

 

まず、ナチNaziという呼称について。ナチNaziとは国家社会主義ドイツ労働者党Nationalsozioalistische  Deutsche  Arbeiterparteiの略称だ。国家社会主義とは国家主義と社会主義を合わせた概念である、とヒトラーは言っている。実際のところは社会主義の方は大衆受けを狙った付け足しで、本質は国家主義にある。この党の主張や行動を嫌悪する人たちが軽蔑の意味を込めてこの党とその党員をナチと呼んだ。ナチスNazisはその複数形。ちなみにナチ党員が自らをナチと呼ぶことはなく、彼らは自分たちのことを国家社会主義者とよんだ。わが国ではナチという呼び方はこの集団の一般的な呼称として使用されている。この作文においてもこの呼称を用いる。

 

この党の指導者がヒトラーである。ヒトラーは政権に就くと直ちに他党を非合法化したり解散させたりして、一党独裁を確立した。ナチ党の意思がすなわち国家の意思であった。行政機構のトップと幹部は、中央も地方も、すべてナチ党幹部が占めた。親衛隊員はすべてナチ党員であったし、警察の幹部もそうであった。国防軍上層部にもナチ党員が存在した。ヒトラーは軍についても着実に掌握を進め、ポーランド侵攻の前までにはそれを達成した。

 

ナチ国家においてヒトラーの意思は絶対であった。国家の重要政策のほとんどすべてがヒトラーにより決定された。ことに外交と戦争と対ユダヤ人政策の三者については、その重要政策のすべてをヒトラーが決定した。ユダヤ人政策について、いかなる内容のものをいかなる時期に打ち出すかは、すべてヒトラーが決定した。 

 

 

つぎに親衛隊と警察について。親衛隊の中に、保安警察があり、保安警察の中に、政治警察として秘密国家警察(ドイツ語を略してゲシュタポ)があった。保安警察とは別に普通の警察があった。ドイツ語を訳して、秩序警察とか治安警察とか呼ばれている。この作文ではわかりやすいよう普通警察とする。ナチ・ドイツにおいて当初、親衛隊と普通警察は別組織であったが、のちに普通警察は親衛隊の組織の一部となった。普通警察を含めた親衛隊を親衛隊・警察と表す学者もいる。この親衛隊・警察のトップがヒムラーである。彼は親衛隊帝国指導者・ドイツ警察長官という肩書であった。保安警察のトップがハイドリヒ。普通警察のトップはダリューゲ。この両者がヒムラーの下に同格のナンバー2として位置づけられていた。この作文においては、ときに親衛隊、ときに親衛隊・警察と表現するが、読者は神経質にならないでいただきたい。ナチがユダヤ人殺しをやっているときの親衛隊には警察も含まれていた、というだけのことだ。 

 

 

ナチは600万人のユダヤ人を殺したが、このほとんどを実行したのは、親衛隊・警察だ。すこし詳しく見ると、ソ連など戦地においては射殺による殺害がほとんどであったが、これをやったのはドイツからその地に派遣された親衛隊・特務部隊と武装親衛隊と警察部隊である。ドイツ、ポーランド、西ヨーロッパなどのユダヤ人はポーランドの収容所に設置されたガス室で殺されたが、ガス室を備えた収容所を運営・管理していたのは親衛隊だった。各国のユダヤ人をポーランドのガス室付き収容所に送る作業を指揮したのは、親衛隊の秘密国家警察に所属し、そこで「疎開・ユダヤ人課」課長の地位にあった、かのアイヒマン親衛隊中佐である。

 

軍も、ソ連域、ポーランド東部などにおいてかなりの数のユダヤ人を殺した。おおかたの将軍たちはユダヤ人を殺すことに熱心ではなかったが、積極的な者も少数いた。 

 

 

この作文では、ドイツ人、という言葉が頻繁に出てくる。ドイツ国籍を有するユダヤ人がドイツ国民であることに間違いないし、ドイツ人と呼んでもおかしくない。ではあるが、この作文においては、ドイツ人とは、ユダヤ人でないドイツ人を指している。ナチの言葉で表せば、アーリア人たるドイツ人である。またこの作文においてドイツが占領した地域で起きたできごとを述べるとき、ドイツ人と出てきたら、そのドイツ人とは、ドイツ本国からその地にやって来た親衛隊員、警察官、行政官僚、国防軍人などを指している。 

 

 

つぎに、地域に関する説明。 

 

 

ナチは第二次大戦中にヨーロッパにおいておよそ600万人のユダヤ人を殺した、というときの、ヨーロッパの範囲について。このヨーロッパには、ウラル山脈以西のロシア(ヨーロッパ・ロシアと呼ぶそうである。)、エストニア、ラトヴィア、リトアニアからなるバルト地域およびベラルーシとウクライナが含まれる。つまりウラル山脈以西、ポルトガルまでのヨーロッパ大陸がこの作文でいうヨーロッパである。ちなみにバルト地域は当時ソ連に併合されており、ベラルーシとウクライナはソ連の一部であった。 

 

 

第二次大戦当時、オーストリアはドイツに併合されていた。もともとのドイツと併合したオーストリアを合わせたのが帝国。帝国ではわかりにくいので、この作文ではドイツ帝国と呼ぶことにする。また、当時チェコはドイツの保護領とされ、ドイツ人による施政下にあった。この保護領をドイツ人はベーメン・メーレン保護領と呼んだ。チェコは中央ヨーロッパ有数の穀倉地帯であるため、ドイツ人垂涎の地であった。ナチは、チェコは古来よりドイツ人の土地でありドイツのものとすることは当然、とした。 

 

 

最後に、第二次大戦当時のポーランドについて。この作文でポーランドと呼ぶのは、第二次大戦当時のポーランドのことであり、今のポーランド国ではない。当時のポーランドは現在のポーランド国と比べ、位置、かたち、広さともに相当異なる。当時のポーランドの東側の国境は、現在のポーランド国のそれと比べ、大きく東方にせり出し、現在のベラルーシ国の一部と、ウクライナ国の一部をその領内に含んでいた。反対に西側のドイツとの国境は、現在と比べ東にやや後退し、その分ドイツ領がやや東に押し出していた。今のポーランド国よりかなり大きな国が、今のポーランド国よりやや東にずれて存在しており、それが当時のポーランドであった、と言うことができる。このポーランドに1939年9月ドイツが西方から侵攻し、ソ連が東から侵入した。両国の協定により、西半分はドイツに、東半分はソ連に分割統治されることになった。ドイツ領分に約200万、ソ連領分に約100万のユダヤ人がいた。1941年6月にドイツとソ連との戦争が始まり、ドイツ軍が境界を越えソ連領ポーランドに進攻、ソ連軍が退却したので、ポーランド全域がドイツの支配下に入った。ドイツ人はポーランドにいた300万人のユダヤ人のほとんどすべてを殺してしまった。 

 

 

では、いよいよ本題に入ろう。 

 

 

ヒトラーに率いられたドイツ国家が第二次大戦中にヨーロッパにおいておよそ600万人のユダヤ人を殺した。ヨーロッパで第二次大戦といえば1939年9月のドイツによるポーランド侵攻に始まり1945年5月のドイツ敗戦に終わる戦争を云うのだが、ドイツがこの大量殺戮を実行したのは1941年から44年にかけてである。

 

ドイツ、オーストリア、チェコ、ポーランド、バルト地域、ベラルーシ、西ウクライナ、首都ブダペストを除くハンガリー、などのユダヤ人は実質的に絶滅した。絶滅とは、一人もいなくなることであるが、実質的に絶滅したとは、一人もいなくなったということではない。ドイツ人に捕まらないよう隠れていたり、収容所に入れられドイツのために働かされていて、殺される前に戦争が終わり生き延びたなどの、わずかの数のユダヤ人を除いて、いなくなってしまった、という意味だ。

 

これらの国のほかに、実質的に絶滅させられた地域として、ドナウ川が黒海にそそぐ河口地帯のモルダヴィア(モルドヴァ)とベッサラビア、それにクロアチア。実質的に絶滅したとまでは云えないがほとんど殺されてしまった地域として、スロヴァキアとセルビア。国全域からではないが、ユダヤ人一掃の標的にされた複数の都市や地域から文字通りユダヤ人が一掃されたのがギリシア。西ヨーロッパでは、オランダにおいてユダヤ人全体の4分の3が殺された。

 

 

主な国について少し詳しく見てゆこう。

 

ドイツでは、1933年にナチが政権を獲得したときおよそ50万人のユダヤ人が住んでいたが、1941年秋までにこのうち36万人を国外に追い出した。残った14万人のほとんど全員をポーランドに作った収容所のガス室に送って殺した。ドイツの東方の地にユダヤ人の住むための土地を開拓するためとか、東方での労働に従事するためとかの名目のもと、原則的に家族単位でドイツから運び出した。

 

戦争が終わったとき、ドイツで生き残っていたユダヤ人は、ドイツ人の配偶者を持つユダヤ人が約1万人、ドイツ人の血が半分混じっているが「混血児」と認定されないユダヤ人(ユダヤ人該当者、と呼ばれた)が千数百人、特別な事情があって殺されることを免れているユダヤ人数百人など、合わせて1万数千人だった。ちなみに、ユダヤ人の血が混じっていても「「混血児」と認定された者はユダヤ人ではなかった。「「混血児」のほとんどは殺されなかった。

 

ドイツで生き残ったユダヤ人のほとんどは大人だった。ドイツ国外に連れ出されず、ドイツに残っていたユダヤ人のうち、わずかに生き残った者のほとんど全員が大人で、子どもは一人残らず殺された、と言ってよい。

 

ドイツ人を配偶者に持つ者(混合婚と呼ばれ、ユダヤ人男性がドイツ人女性を妻としていることが多かった)は原則的に殺されなかった。その理由は、ドイツ人である配偶者(多くの場合、女性)が、自分の連れ合いが親衛隊にどこかに連れて行かれ、生死不明になったなどと騒ぎ立てる事態をナチが避けようとしたからである。

 

 

ポーランドでは、最終的におよそ300万人のユダヤ人がドイツ人の支配下に入った。ドイツ人はこのうち60万人以上を射殺で殺した。約50万人がゲットーで餓死・病死した。約180万を超える数の人が、ガスで殺された。その大部分はガス室で殺されたが、ガス・トラックで殺された人も相当数いた。

 

ポーランドのユダヤ人300万人のほとんどが殺された。ソ連軍が接近して来て、ドイツ人がポーランドから逃げ出したとき、ポーランドで生き残っていたのは収容所で働かされていた大人(ほとんど男性)5万人ほどであった。少数が森などに隠れていた。こどもはすべて殺されていた。

 

ガス・トラックとは、荷台部分が金属製の密閉された箱になっているトラック(いわゆるヴァン)で、一昔前のわが国に走っていた鼻の突き出たバスに似ている。このトラックのエンジンの排出ガス(一酸化炭素が含まれている)が荷台である密閉された箱にホースで導入される構造になっている。この箱型荷台にユダヤ人を詰め込み、ガス中毒死させるのである。 

 

 

 

次にソ連域。当時ソ連邦に含まれていたバルト地域、ベラルーシ、ウクライナなどでは合わせて150万から200万ほどのユダヤ人が殺された。これらの地はドイツとソ連との戦争の戦地であったので、ドイツやポーランドのユダヤ人とは異なる殺され方をした。バルト地域、ベラルーシ、西ウクライナは、森の中に隠れているユダヤ人などわずかのものを除き、ユダヤ人のいない地になった。 

 

 

西ヨーロッパにおいては、ナチのユダヤ人殺しは徹底しきれなかった。ドイツが占領したオランダには16万人のユダヤ人がいたが、このうちのおよそ4分の3を殺した。ベルギーでは4万人のうちの半分を殺した。フランスでは支配下に入れた33万のユダヤ人の4分の1を殺すにとどまった。ナチはフランスのユダヤ人をもっと殺したかった。この程度にとどまったことには、いくつか理由がある。フランスではドイツ人、具体的には親衛隊が直接ユダヤ人を拘束することは多くなく、その作業は、占領者であるドイツ人の要請を受けたフランス政府、具体的にはフランス警察が行った。フランス政府はユダヤ人拘束に際しドイツ当局に熱心でない協力をした。知り合いのユダヤ人家族をかくまうフランス人も少なくなかった。フランス政府は、フランス国籍を持たないユダヤ人については、割合すんなりとドイツ人に渡したが、同国籍を持つユダヤ人を差し出すことには抵抗した。あれやこれらの理由でフランスのユダヤ人の7割超は生き延びた。3割弱のユダヤ人がポーランドのガス室に送られて殺された。 

 

 

大戦末期になって、短期間のうちに大量のユダヤ人が殺されたのが、ハンガリーである。ハンガリーはドイツの同盟国であり、ドイツとソ連の戦いにおいてドイツに与(くみ)していた。ナチがハンガリーのユダヤ人の始末に着手したとき、ハンガリーには約75万のユダヤ人が住んでいた。このうち首都ブダペスト在住のユダヤ人などを除き、55万人が殺された。ハンガリー全域を何区かに分け、一区ずつ鉄道でアウシュヴィッツに輸送し処理したが、首都ブダペストが順番の最後になっていた。最後にそこに手を付けようとしたとき、ソ連軍が東の方から迫ってきた。ドイツ人の一部はハンガリーから逃げ出し、残りはソ連軍に降伏した。結果としてブダペストのユダヤ人のほとんどは生き延びた。

 

 

 

誰が先で、誰があとか、殺される順番を整理しておこう。 

 

 

ドイツでは、東方の新しい土地への移住とか、東部での労働に従事するためとかの理由をつけて、家族単位でドイツ東方へ鉄道輸送した。実際に到着したところはポーランドの収容所であった。収容所についたら、壮健な成人男女の中から選ばれ、ドイツのための労働者としてしばらく生かされる少数の者を除く全員が、ガス室に送られた。つまり女性一般、子ども、老人、および労働者に選抜されなかった成人はすぐに殺された。しばらく生かされ働かされていた者も、過労や病気により死んだり、用済みとして処理されたりして、基本的に全員死に追いやられた。連合国軍が近づいてきて、収容所のドイツ人が逃げ出したため、運よく生き残ったユダヤ人がごく少数いた。

 

 

西ヨーロッパのユダヤ人の殺され方はドイツのユダヤ人のそれと基本的に同じ。

 

ハンガリーも同じ。

 

 

ポーランドのユダヤ人は、ほぼ全員がゲットーに入れられていた。これをゲットーの外の収容所にあるガス施設に鉄道貨車やトラックで輸送して処理した。しかし、ドイツや西ヨーロッパやハンガリーからのユダヤ人の場合のように収容所に着いたときに選別されるのではなく、ポーランドの場合、ゲットーを出る時点ですでに選別されており、収容所についたら、輸送されてきた全員がすぐに殺された。

 

ゲットーからはこんな手順で運び出された。ある日、ドイツ人(親衛隊)からゲットー管理人に任命されているユタヤ人指導者対し、ゲットーの外に移動させる人数と期日が告げられる。まえもってドイツ人からユダヤ人指導者に対し、役に立たない者から先に移動させよとの、指示が与えられている。そこでユダヤ人指導者はその基準に基づき、そのとき移動させる人名リストを作成する。このときすでにユダヤ人指導者はゲットーの外への移動が死を意味することを知っている。老人、病者、労働者として登録されていない大人とその家族(当然、子どもと幼児が含まれている)が先にゲットーの外に送りだされる。そのうち、ドイツ人から次回輸送の人数と期日の通知が来る。今度は労働者として登録されている大人とその家族の番になる。労働者本人を残してその家族(妻と子ども)が先に行く。そのあと労働者本人も出てゆく。単純労働者が先で熟練労働者があとだ。つぎに、ゲットー管理組織に勤めていた者(いわばゲットーの公務員)とその家族が出てゆく。最後にゲットー管理人であったユダヤ人指導者とその家族が、今まで出ていった人たち同様、ガス室に向かってゲットーを出てゆく。ゲットーから人がいなくなる。ドイツ人はこれをゲットーの解体と呼んだ。

 

 

 

ソ連域。田舎では、ユダヤ人は住んでいるところの近くで射殺された。ドイツ軍が使用する道路の整備などに使用するため、壮健な男性の一部がしばらく生かされていたが、それ以外は全員殺害された。田舎で殺し切れないユダヤ人は都市のゲットーに移動せられた。都市のユダヤ人はすでにゲットーに押し込められていた。ドイツ人はこれらユダヤ人のほとんどを殺すことになる。ゲットーの住民は、労働者として登録されている者を除いて、順番にゲットーの外に連れ出され森などで射ち殺された。一部はポーランドのガス室に送られた。労働者として生かされていた者も、最後には、すなわちドイツ人の撤退時には、殺された。 

 

 

このように、ドイツ人の支配下に入ったユダヤ人のうち、殺されるまでの時間が長かったのは、ドイツ人から労働者として選抜された、成人ユダヤ人であった。大部分が男性で、女性は少なかった。身体頑健で肉体労働に向いたり、熟練技術を有する者の中から、必要な数をドイツ人が選んだ。そういう者も必要な期間に限り生かされていただけで、病気になったり衰弱したら死ぬにまかされた。用済みになったら殺された。ドイツ人がその地を去るときは、管理下にあったユダヤ人労働者を殺してしまうか、ドイツ本国により近い収容所に移動させた。生かして残したら、あとから来るソ連軍の協力者になる者もいるし、ドイツ人がユダヤ人に行った残虐行為が暴露されるからだ。別の収容所に移動させたのは、労働力として引き続き利用する目的もあった。

 

以上のように、ドイツ人の手中に落ちた子どもと女性一般と老人については、生きながらえる可能性ははじめからなく、すぐに殺されるがしばらく生かされたのち殺されるかの違いがあるだけだった。これらの人々は、ドイツ人の支配下に入ったその時点で、自動的に、死を運命づけられていたのである。 

 

 

つぎに、ガスによる殺害について。

 

ソ連域では大部分が射殺だったが、ガス・トラックで殺された人もかなりいた。ガス・トラックで殺された者のほとんどは女性と子どもであった。ポーランドのガス室に送られた人も少しいた。

 

ポーランドでは大部分がガス室で殺されたが、ガス・トラックで殺された人もかなりいた。

 

ドイツ、西ヨーロッパ、ハンガリーのユダヤ人はポーランドのガス室で殺された。 

 

 

絶滅収容所という言葉がある。ユダヤ人の殺戮を専門とする収容所のことだ。ユダヤ人を大量に殺処理するための工場ともいえる。一時的収容施設とガス室と焼却炉を備えていた。焼却炉の替りに、野天に焼却用の穴を掘ることもあった。絶滅収容所として、ベウジェッツ、ソビブル、トレブリンカがある。収容所といっても、ここに来るユダヤ人はガス室と焼却炉が空き次第殺されるわけだから、滞在時間は短い。

 

もう一つ、絶滅機能と労働機能の双方を併せ持つ収容所があった。ポーランド中南部にあったアウシュヴィッツ収容所がこれだ。アウシュヴィッツ収容所には3つの収容所があり、それぞれ第一(基幹)収容所、第二収容所、第三収容所と呼ばれた。このうち絶滅専門なのは第二収容所で、いわゆるビルケナウ収容所である。第三収容所(モノヴィッツ)は軍需品生産のための工場を有し、多くのユダヤ人が働かせられていた。

 

絶滅収容所とは学者の作った用語で、ナチ自身は絶滅収容所などという不用意な言葉を使うことはなく、単に強制収容所とか労働収容所などと呼んだ。 

 

 

ガス室で殺される犠牲者は、消毒のためシャワーを浴びるとして裸にされた。脱衣所は収容所のバラックであったり、収容所内の中庭や林であったりした。裸になったら、廊下や屋外をガス室の前まで歩くか走らされた。ガス室の扉にはシャワー室と書かれていた。親衛隊員が犬を使ったりして荒々しく部屋に追い込んだ。

 

ガス室で使用するガスには2種類あった。一酸化炭素とシアン化水素ガスだ。一酸化炭素の場合、エンジンの排出ガスを用いた。主に自動車のエンジンを使用したが、U-boatのエンジンとか捕獲したソ連製戦車のエンジンとかの説明もある。こだわる必要はない。ガス室の横に設置したエンジンを稼働させ、発生したガスに圧力をかけて、ガス室に送り込んだ。ガスを吸ってから絶命するまで20分から30分かかったらしい。

 

シアン化水素は、ダニやゴキブリなどに対する燻蒸(くんじょう)殺虫剤としてドイツで広く使用された。ユダヤ人を殺すために使われたシアン化水素成形材はツィクロンBという商品名であった。珪藻土(けいそうど)にシアン化水素を含ませた固形物(粒状)になっていた。摂氏25度で気化し、空気より比重が軽い。ガス殺の際の使用方法を説明する。ガス室の屋根に煙突らしきものが設置されていて、この煙突の底とその下のガス室の天井には穴が開けられ、この穴を通じて金属製パイプがガス室の床スレスレまで伸びている。ガス室内の金属製パイプにはメッシュ状の穴が開いている。ガス室に犠牲者がギューギューに詰め込まれたとき、屋根の煙突の陰に防毒マスクを付けて待機していた親衛隊員が、毒ガスが固型されている粒を煙突に投入する。毒ガスの粒は金属パイプを通りガス室の床近くまで届き、パイプの底にたまる。ガス室内はギューギュー詰めされた犠牲者の体温で25度C以上になっている。室温を上げるために暖房装置の付いたガス室もあった。毒ガスの塊は気化を始め、ガスが床から上へと拡散し室内に充満する。毒ガスの粒は、天井からパイプを通して投入されたほかに、ガス室に取り付けた小窓から直接投げ込むこともあった。シアン化水素の場合、ガスを吸ってから絶命するまで15分から20分であった。ガス室の壁または扉に中の様子を確認するためののぞき窓がついていたという。

 

無残なありさまで息絶えた犠牲者をガス室から引き出し、焼却炉まで運び、焼却後の骨と灰を処分するのは、ユダヤ人特務班の仕事であった。これらの者も、最終的に仕事がなくなったときには殺されることになっており、実際にそうされた。

 

シアン化水素を用いたのはアウシュヴィッツともう一つの収容所である。他の収容所は一酸化炭素を用いた。毒ガスにより殺されたユダヤ人はおよそ300万人とされているが、その3分の2は一酸化炭素により、3分の1がシアン化水素により殺され、後者の場合そのほとんどがアウシュヴィッツにおいてである。

 

 

 

すでに触れたが、ガスを使用する殺人装置としてドイツ人はもう一つとんでもないのを作った。ガス・トラックである。荷台部分が金属製の密閉された箱になっているトラックで、このトラックのエンジンが排出するガス(一酸化炭素が含まれている)が荷台である箱にホースで導入される構造になっている。この箱型荷台に裸にした犠牲者をギューギュー詰めに押し込み(定員が50人、100人、150人と3つのタイプがあった)エンジンを始動させ、15分から20分間ガスを注入し続けると、犠牲者は死に至る。そうするとトラックは走り出す。バスの行き先は少し離れたところにある森である。ここに前もって大きな穴が掘ってある。後部ドアを開け、死体を引っ張り出して穴に放り込み、元の場所に戻る。これを一日何回かその日の殺害目標数に至るまで繰り返す。ガス・トラックを用いて、ポーランドとソ連域とで合わせて数十万のユダヤ人が殺された。犠牲者となるユダヤ人やこのトラックを目撃した住民(ポーランド人など)を欺くために、箱型荷台にペンキで窓を描き、普通のバスにように見せかけようとしたタイプもあったというから、あきれる。

 

ほどなくして、ガス・トラックは効率が悪いとして廃止され、ガス殺はもっぱらガス室でやることになった。

 

ガス・トラックを使用する絶滅収容所としては、ポーランド中部のヘウムノに作られた収容所がある。収容所といっても犠牲者は到着次第ガス・トラックに誘導されたから、殺人トラック・ターミナルと呼んだ方が正解だ。

 

 

 

余談になるが、ドイツ人はユダヤ人の死体の脂から石鹸をつくっていると、絶滅工場のあるポーランドの地において広く噂されていたらしい。これは事実ではなかったようだ。ユダヤ人の死体の骨を粉砕して、これを肥料としてポーランド農民に与えたことはあったらしい。ポーランド人はそれが人骨の粉であることを知っていたのであろうか。若い女性の髪は殺す前や殺したあとに切りとって利用した。消毒した後、成形して、寒冷地にいるドイツ軍兵士や潜水艦乗りの靴の中敷きにした。靴下や靴自体に加工したという説もある。アウシュヴィッツ収容所がソ連軍に解放されたとき、倉庫一杯の髪の毛が発見された。ユダヤ人の死体から金歯を抜き取り、ドイツに運んで金塊とし、ドイツの中央銀行であるドイツ銀行に納めたことはよく知られている。ドイツのユダヤ人が東方に連れ去られて、住んでいた家が競売にかけられることがあったが、お得な買い物として大変な人気で、落札したドイツ人は狂喜した。応札したドイツ人は、いなくなったユダヤ人のことを考えたりしなかったのだろうか。

 

自らやったホロコーストと日本人のやった南京虐殺とを同列視して、罪悪感と羞恥心とを少しでも和らげようとするドイツ人がいないでもないらしいが、殺した数も違うし、残虐行為の内容もだいぶ異なるようだ。

 

 

 

 

大戦中ナチにより死に追いやられたユダヤ人の数をざっとまとめておく。全体として約600万でよい。

 

出身地域として死者数が多いのは、ポーランド290万(ゲットーでの餓死・病死50万、ガス殺180万、射殺60万)。ソ連170万(大部分は射殺、一部ガス殺)。

 

ハンガリー55万(ガス殺)。帝国(ドイツとオーストリア、合わせて20万、ガス殺) 

 

 

死因別には、ガス殺320万(ポーランドのユダヤ人180万、ドイツ・西ヨーロッパ・ハンガリーその他の国のユダヤ人140万)。ポーランドのゲットーにおける餓死・病死50万。射殺230万(ソ連において150万、ポーランドにおいて60万、その他において20万)

 

 

 

 

さて、今まで述べてきたことはイントロとしての概略だ。ここからは少し詳しく見てゆく。

 

まずはナチがユダヤ人に対してやったことを地域ごとに調べてゆこう。ドイツ、ポーランド、ソ連、西ヨーロッパ、その他という順で。それが終わったら全体的な考察をやる。 

 

 

ドイツ

 

ナチが政権に就く前のことは省略。1933年1月30日にヒトラーを首班とする内閣が発足した。しかしこの時点でヒトラーがドイツの絶対的政治権力者になったわけではない。もう一人の権力者として大統領がいた。ヒンデンブルクだ。どちらと言えば、こちらが最終的な政治権力者だった。法律は大統領の署名なしには成立しなかったし、自らは独自に大統領令を発し得た。首相を含めて閣僚の任命権も有し、国防軍の最高司令官でもあった。この年3月には、新法により法律の成立に大統領の署名を必要としなくなったが、大統領は依然としてその他の権能を保持した。ヒトラーがドイツの絶対的政治権力者になったのは、1934年8月にヒンデンブルクが死去し、大統領の権能が自分の務める首相のそれに合併された時だ。

 

ナチが政権を獲得して最初にやったことは、ユダヤ人をいじめることではなかった。ヒトラーがはじめにやったことは、政治的敵対者の排除であった。具体的には、第一に共産党を、つぎに社会民主党をドイツから消し去ることであった。ヒトラーは政権に就いてわずかひと月後の2月末、大統領を説得して「民族および国家保護のための大統領令」を発令させた。これにより、言論・集会・結社などの自由を保障した憲法条項は停止された。身柄拘束や家宅捜索に対する制限も撤廃同然となった。政府は国家にとって危険とみなした政治活動家を自由に逮捕・拘禁できるようになった。この命令により、さっそく数千人の共産党議員が逮捕された。つぎに、ナチ党以外の政党の解体に着手した。まず共産党を非合法化し、つづいて社会民主党も同様にした。それまでに拘禁されていなかった両党の幹部は地下に潜伏するか、国外に亡命するしかなかった。これにより、ナチ党の第一の敵である共産党と第二の敵の社会民主党がドイツから消えた。残る政党も、ナチから有形無形の圧力を受け、自ら解散した。こうしてこの年の7月にはドイツに残っている政党はナチ党のみとなった。仕上げに、こののちの新党設立を禁止する立法を行った。これにより現在も将来もドイツに存在する政党はナチ党のみとなった。

 

これと併行して、ヒトラーは、この先ナチ体制に反抗する政治的あるいは世論的な活動が生長することがないよう、その活動を芽の段階で徹底的に摘み取ることを企図した。体制に対する危険分子の発見・拘束を任務とする組織の強化し、危険分子の拘留施設である強制収容所を創設した。ヒトラーはその任務をゲーリングとヒムラーとにゆだねた。はやくも3月には最初の強制収容所が作られた。4月には今までの政治警察が秘密国家警察、いわゆるゲシュタポに改組された。このゲシュタポこそがその後のドイツの保安活動の中枢であった。ゲシュタポに国家の危険人物として目をつけられたドイツ国民は、今まで築き上げてきた社会的位地を早晩失うことになった。ドイツ国民は、他人の前では、政府に対する批判と受け取られる発言を口にすることのない、政治的無言の民と化した。

 

ナチは政権に就いて半年余りの短期間に、ドイツ国内において、政治的独裁を確立し、今後の体制維持のための政治警察組織の構築に着手した。その後のドイツの国内政治の進路を決定づける礎石は築かれた。

 

ヒトラーは首相就任直後、もう一つ、その後ドイツの進路を決定づける重要な意思表示を行った。それは軍事に関するものだ。ヴェルサイユ条約で制限されたドイツの軍備の再構築だ。ヒトラーは政権獲得前に何度も、政権を獲得した暁には、ヴェルサイユ条約を破棄して、ドイツを再軍備する、と公言していたがその言葉に偽りはなかった。首相就任のわずか4日後の2月3日、集合した国防軍最高幹部に対し、ドイツの再軍備を最大の急務として推進する、と約束している。それだけでなく、ドイツの東方にドイツ人のための土地を獲得する、とも。その後の彼は、再軍備と新しい領土の獲得というこれら公約を100パーセント超、誠実に実行してゆくことになる。

 

 

 

ナチ・ドイツは1935年3月、再軍備実施を諸外国に公表し、軍備再構築を本格化していく。その後の対外侵略をまとめておこう。

 

1938年3月、ドイツ軍、オーストリアに進駐し、それを併合。

 

1939年3月、ドイツ軍、チェコに進駐、チェコはドイツの保護領となる。

 

1939年9月、ドイツ軍、ポーランドに侵攻し、ポーランド西半分を併合(東半分はソ連が併合)。英仏、ドイツに宣戦布告。

 

1940年4月から5月、ドイツ軍、デンマーク、ベルギー、オランダに侵攻し、それらを占領。

 

1940年6月、ドイツ軍、パリ入城。フランス北部はドイツの軍政下におかれ、南部はドイツに従属するヴィシー政府が治めることとなった。

 

1941年6月、ドイツ軍、ソ連に侵攻し、ドイツ・ソ連戦争(独ソ戦)勃発。

 

 

さて、ヒトラー率いるナチは、政権に就いて半年余りの間に、独裁的な政治権力を確立し、ナチ権力に対する公の批判や反対活動をほとんど不可能にする治安維持体制の骨格を作りあげた。さらにドイツ国外にドイツ人のための土地を新たに獲得する方針を明言し、そのための軍備を整える作業を開始した。ナチ・ドイツ国家を特徴づける独裁政治、警察権力による反対勢力の徹底的抑え込み、対外拡張主義の三者がここに現出した。しかしこれら三者はいずれもナチ・ドイツ国家に限ったことではない。過去にあっても現在おいてもありふれた国家形態だ。ナチ・ドイツ国家を特徴づけるのは、ユダヤ人迫害だ。しかしユダヤ人迫害自体は、昔からヨーロッパ各地でさまざまな形態、程度において行われてきたことだ。にもかかわらず、ナチによるユダヤ人迫害は、それまでのユダヤ人迫害に比べ際立って独特なものだ。その規模つまり犠牲者数がそれだし、その計画性と徹底性もそうだ。

 

 

 

ナチは、政権に就いたのち、すぐさまユダヤ人いじめを開始している。ただこの時期、ユダヤ人いじめを行うことは、先に述べた緊急の政治課題に取り組むことに比べ、その重要性は二義的なものにであった。にもかかわらず、国家を運営する立場に就いたナチが、その立場においてユダヤ人いじめを開始するのは、彼らにとって必然の理ではあった。ナチはその時がようやくやってきたと張り切ってユダヤ人いじめを開始した。

 

ナチは政権に就くとただちに政治における宿敵であるドイツ共産党を弾圧し、多くの党員を逮捕・拘禁したが、その中にはかなりの数のユダヤ人がいた。しかしこれは彼らが弾圧対象の党の党員であったからそうされたのであって、ユダヤ人であることを理由にそうされたわけではなかった。ユダヤ人である党員が、ユダヤ人でない党員に先んじて弾圧されたことは確かだが。

 

 

 

ナチ政権下にあって、ユダヤ人がユダヤ人であることをもって迫害を受けた最初は、ユダヤ人商店不買キャンペーンであった。ナチはドイツ国民にユダヤ人が経営する商店で買い物をしないよう呼びかけた。ナチ党員は営業妨害の実力行使をした。しかしドイツ国民がナチの呼びかけに冷ややかな対応を示し、海外世論の非難もわき起こったので、ヒトラーはこれをすぐにやめた。

 

 

 

では主要な対ユダヤ人政策を時系列に挙げる。 

 

 

ナチによる体系的なユダヤ人迫害の第一弾は、ユダヤ人の公職からの追放だ。ナチ政府は、1933年4月初めに、「官吏団再建法」なる法律を制定した。この法律において「アーリア人血統を有しない」官吏は強制的に退職させられることになった。国、地方自治体、公的法人の官吏がその対象であった。のちに、裁判官、公立大学・学校の教員がこれに加えられた。いくつかの除外規定があり、すべての「アーリア人血統を有しない」官吏が解雇されたわけではないが、ユダヤ人をドイツの公的社会から追放する第一歩が始まったのである。

 

すこしわき道にそれる。普通には、アーリア人という言葉は、黄色人種、アラブ系、黒人などを除く、白人のことを指すのであろう。だから、普通には、アーリア人でないとは、白人でない黄色人種、アラブ系、黒人などに属する、との意であろう。ナチにとっても、人は、アーリア人である者とアーリア人でない者とに分かれる。ところが、ナチの関心の対象となるのは、アーリア人とユダヤ人だけである。ユダヤ人はアーリア人ではない。そこでナチが、かれはアーリア人でない、と言うとき、それは、彼はユダヤ人である、との意味になる。ナチにとっては、黄色人種、アラブ系、黒人などは一応ヒトの部類だが、考慮の対象たるに値しない劣等人種であった。

 

元に戻る。この法律の施行令において、「アーリア人血統」なる概念が導入され、ドイツ国民は、アーリア人血統を有する者=「アーリア人」と、アーリア人血統を有しない者=「非アーリア人」とに二分されることとなった。具体的には、「アーリア人」とは、ユダヤ人を祖先に持たない者を意味し、「非アーリア人」とは、ユダヤ人を祖先に持つ者を意味した。詳しく言えば、その者の父母または祖父母の中に一人でもユダヤ教徒がいたら、その者は「非アーリア人」とされた。その者自身の宗教いかんは関係なかった。

 

ついでに言えば、この時点では、その者が「アーリア人」であるか、それとも「非アーリア人」であるかの定義にとどまった。その者が「ユダヤ人」であるか否かの定義はこれより2年あまりのちの1935年11月制定の法令により行われる。 

 

 

再び元に戻る

 

1933年9月に成立させた法律により、ユダヤ人が大きな勢力を有していた新聞・ラジオなどのマスコミ界からユダヤ人(経営者、記者)を追放していく。 

 

1935年9月、「ドイツ国公民法」が制定され、ユダヤ人はドイツ国籍を有していてもドイツ国公民たり得ないとされた。この法律を根拠にユダヤ人は選挙権と被選挙権を奪われ、また公職からの追放が徹底されることになる。

 

 

 

1935年11月、「ドイツ国公民法」第一次施行令により、「非アーリア人」、「ユダヤ人」、「混血児」の定義がなされた。「非アーリア人」は、「ユダヤ人」と「混血児」からなり、「混血児」はさらに「第一級混血児」と「第二級混血児」に分類された。

 

「ユダヤ人」とは、ユダヤ人の祖父母を4人ないし3人持つ者。あるいはユダヤ人の祖父母を2人持つ者で、本人がユダヤ教に属しているか、またはユダヤ人と結婚している者を指す。

 

「第一級混血児」とはユダヤ人の祖父母を2人持つが、本人がユダヤ教に属しておらず、かつユダヤ人と結婚もしていない者を言う。

 

「第二級混血児」とはユダヤ人の祖父母を1人持つ者を指す。

 

人には父方と母方とを合わせて4人の祖父母がある。祖父母がユダヤ人であるか否かは、その者がユダヤ教に属しているか否かで決定した。

 

 

 

1938年11月から12月、ユダヤ人は小売業、卸売業、工業など業種を問わず、あらゆる事業経営を禁止されることになった。ユダヤ人は事業を清算するか、ドイツ人へ譲渡するしかなかった。ユダヤ人役員を雇用するドイツ人企業はそれらを解任するよう圧力をかけられることになった。

 

 

 

1938年12月5日、ヒムラーがユダヤ人の運転免許の剥奪を命ずる布告を発した。のちにはユダヤ人は地下鉄、路面電車、バスなどの公共交通機関を利用することを厳しく制限された。

 

 

 

1938年12月5日、ベルリン市警察本部長は「公的な場におけるユダヤ人の出入りに関する指令」を公布した。指定された通り、広場、公園、公共建物などについて、以後ドイツ国籍および無国籍のユダヤ人の立ち入りを禁止した。

 

 

 

1938年末以降ユダヤ人の住む場所の制限に着手した。ただし、ユダヤ人を一定の地域に住まわせるというのではなく、ユダヤはユダヤ人だけが居住する住宅に集中して住ませる、というもの。いわゆるユダヤの家。一つの住宅にドイツ人とユダヤ人が混住するという形態は次第になくなって行く一方、ユダヤ人たちはユダヤ人所有の住宅にいくつかの家族が目一杯詰め込まれることになる。

 

 

 

1939年9月、戦争勃発後まもなくして、警察の命令により、ユダヤ人は夏期は午後9時以降、冬期は午後8時以降の外出を禁じられることになる。 

 

 

 

1939年9月1日、政府は、本日以降外国放送の聴取を禁止する命令を発した。違反した場合は重罰が課された。これはユダヤ人に限ったことでなくドイツ国民対象だった。ドイツ国民が敵側の宣伝に惑わされるのを防ぐためであった。

 

 

1939年9月23日、ユダヤ人の所有するラジオ受信機が没収された。のちにはユダヤ人は自宅の電話機を没収され、公衆電話の使用も禁止された。

 

 

 

ドイツ人とユダヤ人が一緒に働く職場が減らされ、ユダヤ人だけが働く職場が作られていく。

 

 

 

1939年9月、対ポーランド戦勝利後、ヒトラーはドイツ帝国とポーランドのすべてのユダヤ人をポーランドの東端に位置するルブリン地区に集結させる構想を明らかにした。この計画は本格的な実施に至る前に、いくつかの理由により、1940年4月までに放棄された。1940年4月までに帝国から移送されたユダヤ人の数は1万人に満たなかった。

 

 

 

対フランス戦勝利後の1940年夏、ドイツ支配下にあるヨーロッパのすべてのユダヤ人を当時フランス領であったマダガスカル島に移住させるとの構想がナチ当局(親衛隊と外務省)により検討された。この構想は、イギリスとの戦争が継続中は海上輸送が困難などの理由により、1940年の終わり頃には当面断念するということになった。

 

 

 

対ソ連戦開始後2ヵ月あまりを経た1941年9月、ユダヤ人表示に係る警察令が公布され、ドイツ帝国(ドイツとオーストリア)とドイツの保護領であるチェコの、満6歳以上のユダヤ人がユダヤ人記章を着用せずして公開の場所に現れることを禁止した。ユダヤ人記章はユダヤの星と呼ばれた。黄色の布で手のひら大の星形をつくり、これに黒字でユダヤ人と書く。衣服の左胸部分に着けた。

 

 

 

上記警察令の第二条により、ユダヤ人は地方警察当局の許可証なしに居住区を離れる(住宅地区の境界線を越える)ことを禁じられた。

 

 

 

1941年9月18日、ヒムラーは、ヒトラーがドイツとドイツの保護領であるチェコをできるだけ早期にユダヤ人のいない地域にしたいと望んでいるとして、これらの地域のユダヤ人の東方への移送に着手することを表明した。移送は1941年10月15日に開始され、1942年2月21日に終了し、ポーランドとソ連に合わせておよそ6万人(当時ドイツ帝国と保護領チェコに住んでいたユダヤ人の約2割)を移送した。

 

 

 

 

1942年1月20日、親衛隊・国家保安本部長官ハイドリヒは、ドイツ中央諸省庁から次官クラスを招集して、ヨーロッパ・ユダヤ人問題の最終解決に関する会議、いわゆるヴァンゼ―会議を開催した。この会議において、それまでは、総統官房長ブーラー、ヒムラー、ハイドリヒなど限られた者にしか知らされていなかったヒトラーの意思、すなわちヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅方針とその作業の開始が出席者に示された。ハイドリヒは、ヨーロッパ31ヵ国・地域のすべてのユダヤ人約1,100万人を東方に移送し、労働能力のある者については、その労働力をドイツが必要とする限り利用するが、最終的には死に至らしめる、また労働能力のない者については、移送後速やかに全員死に至らしめる、との計画を提示した。出席者は、ハイドリヒの示す内容の根幹が絶対者ヒトラーの意思を反映したものであることを認識し、静かな態度でこの計画を承った。 

 

 

 

これらの政策を分野別にまとめてみることにしよう。 

 

 

1 ユダヤ人を多くの職業から追放した。ユダヤ人を公務員職から追放した。ユダヤ人医師とユダヤ人弁護士について、その国家資格を剥奪し、新たに病人治療士あるいは法律顧問という資格を取得した者が、ユダヤ人の顧客に限って業務を行えるとした。新聞・ラジオなどのマスコミ界からも追放した。さらに、ユダヤ人は業種を問わず自営業と企業経営を禁止され、その事業は閉鎖または清算されるか、ドイツ人企業家に譲渡されることになった。民間企業にいるユダヤ人役員は政府からの圧力により解職された。 

 

 

2 ユダヤ人の行動の自由を空間的・時間的に制限した。

 

ユダヤ人は劇場、映画館、音楽会、講演会、展覧会、サーカスなど人々の集まる場所や指定された街路、広場、公園などに立ち入ることを禁じられた。ユダヤ人は夜8時ないし9時以後に外出することを禁止された。ユダヤ人は警察の許可なしに居住区を離れることを禁じられた。ユダヤ人は自動車運転免許を剥奪され、公共交通機関の利用も制限された。 

 

 

3 ユダヤ人は住居についても制限された。ユダヤ人をドイツ人と同じ住宅に混住させず、ユダヤ人はユダヤ人の所有する住宅に集中して住ませることになった。 

 

 

4 ユダヤ人は情報入手とコミュニケーションを制限された。

 

1939年9月の対ポーランド戦開始以降、ドイツ国民は、ユダヤ人・非ユダヤ人を問わず、外国放送の聴取を禁止された。まもなくして、ユダヤ人について、その所有するラジオ受信機が没収された。ユダヤ人は電話の所有と公衆電話の使用を禁止された。 

 

 

 

5 ユダヤ人はユダヤ人であることを示す記章をつけることになった。

 

1941年8月18日、ヒトラーはゲッベルスの提案するドイツのユダヤ人に対するユダヤ人識別記章の着用義務化を承認した。9月19日以降ドイツ帝国の6歳以上のユダヤ人は外出時にユダヤ人記章を着用しなければならなくなった。

 

 

 

 

これらを大まかにまとめると、職業を奪い貧乏人に落とした。行動範囲を制限し、夜間の外出を禁止した。ユダヤ人だけが住む家にまとめて住まわせた。外出時にユダヤ人であることを示す記章を付けさせた。つまり―落ちぶれさせた。自由に出歩けないようにした。まとめた。印を付けた。

 

 

このように見てくると、これらの政策の中でその目的やらを普通人の感覚で推測できるのは、職業を奪い貧乏人に落とす政策ぐらいだ。ユダヤ人が占めていた良い職業に、ドイツ人が入れ替わって就くことになるのであるから、ドイツ国民の間でナチ人気は上がったに違いない。

 

他の政策については、少し洞察力がいる。その政策を推進した本人たちがその理由に言及しているとしたら、それを手がかりにして、こちらの想像をそれに加えながら、考察してゆくのも一つの手だ。これから先、すでに述べた分とダブルところがあるが、ここがナチのユダヤ人観を知る上で重要なポイントなので、辛抱してほしい。 

 

 

1 ユダヤ人を多くの職業から追放した。

 

ドイツのユダヤ人は自営業や知的専門職が多く、平均収入は他のドイツ人のそれより相当高かった。よい職業を持ち、裕福な者の割合が他のドイツ人より多かった。ユダヤ人として生まれた者が医者、弁護士などになる確率は、ドイツ人のそれに対し、比較にならないほどに高かった。ユダヤ人をある職業から追放すれば、その職業にドイツ人が就ける。ユダヤ人所有企業のドイツ人企業家への譲渡は、ほとんどの場合実際の価値より安価であったから、ドイツ人にとっては多いにメリットがあった。ともかく高額の収入をもたらす職業からユダヤ人は追放されてしまった。ユダヤ人の職業は実質的に、低・中所得の賃金労働に限定されてしまった。これらの政策はユダヤ人でないドイツ人に実利をもたらすものであったから、ドイツ人は喜び、ナチ政府の人気は上がった。

 

 

 

2 ユダヤ人の行動の自由を空間的・時間的に制限した。

 

ユダヤ人の外出は、昼間に、自宅に近い、しかも立ち入り禁止とされていない場所に出向くに限られた。自動車運転免許を取り上げられ、居住区を離れるには警察の許可が必要とされたため、近場以外の外出は不可能になった。 

 

 

 

3 ユダヤ人は住居についても制限された。ユダヤ人をドイツ人と同じ住宅に混住させず、ユダヤ人はユダヤ人の所有する住宅に集中して住ませた、つまりユダヤ人をユダヤ人だけの住む住宅にまとめた。 

 

 

4 ユダヤ人は情報入手とコミュニケーションを制限された。

 

 

 

今まで述べた分のうち、1の政策の目的はわかる。234はよくわからない。ところが、これらの政策の目的を理解するのに役立つ政策が次にある。

 

すなわち、

 

5 ユダヤ人はユダヤ人であることを示す印をつけられた。

 

1941年8月18日、ヒトラーはゲッベルスの提案するドイツのユダヤ人に対するユダヤ人記章いわゆるユダヤの星の着用義務化を承認した。9月19日以降ドイツ帝国の6歳以上のユダヤ人は外出時にユダヤ人記章を着用しなければならなった。

 

こうすれば、街頭において、ユダヤ人が近くにいるか、誰がユダヤ人であるかなどが一目瞭然となる。ユダヤ人記章のアイディア自体はは、ゲーリングが1938年11月に開催したユダヤ人問題に関する会議において、親衛隊・保安警察長官ハイドリヒが、ユダヤ人を孤立化させるための措置として提案したものだ。ハイドリヒは、ユダヤ人を孤立化させることを、ユダヤ人がドイツ人の生活する場所に入って来られないようにする、とも言い表している。この時は最終的にヒトラーがこの提案を却下した。まだその時機でないと考えたらしい。ヒトラーが帝国と保護領チェコのユダヤ人にユダヤ人記章を着用させる決定を下すのは1941年8月半ばのことだった。

 

 

 

では、ユダヤ人記章をめぐるナチ幹部やユダヤ人自身などの発言。

 

1941年4月22日、ゲッベルスは、ドイツ民族への混入を防ぐため、ベルリンのユダヤ人に識別記章を着用させるつもりだと発言した。

 

1941年8月15日、宣伝省次官グッテラーは、ユダヤ人に記章を着用させることは戦争継続のため国民の士気を維持する上で不可欠であると述べた。

 

1941年7月末、エリート行政官のナチが書簡に次の内容を記した。ユダヤ人は反ドイツ政府宣伝の担い手であるから、政治的安定のために、その活動を抑えなければならない、ユダヤ人に記章をつければ、ユダヤ人と接触しているのが一目瞭然となるので、人々はユダヤ人との接触を避けるようになる、そうすれば、ユダヤ人が人々を扇動して社会に反ドイツ政府的な気分を作り上げることが困難になる、。ユダヤ人は人々を反ドイツ政府の方向に扇動しようとする、それを防ぐためにはユダヤ人を人々から隔離する必要がある、そのための方策がユダヤ人記章の着用である、と。 

 

 

1941年9月時点で、ドイツ在住でドイツ人を妻に持つユダヤ人インテリの日記。新聞紙上では、この措置の目的は、国内のユダヤ人からあらゆるカモフラージュ(この作文の筆者注、ユダヤ人であることを隠し、アーリア人を装うこと)の可能性を取り上げ、それによってわれわれ同胞と彼らとのあらゆる接触を防止するため、とされている。 

 

 

ゲーリングが1938年11月に帝国各省と親衛隊のトップクラスを招集して開催した、ユダヤ人問題に関する会議において、ゲッベルスがユダヤ人のカモフラージュと扇動について発言した。すなわち、公園にユダヤ人らしい顔をしていないユダヤ女が来て、ドイツ人女性の隣に座り、扇動的な発言しているので危険だ、と。しかしゲッベルスのこの時の発言の狙いは、ユダヤ人記章の導入ではなく、公園においてユダヤ人がドイツ人と同じベンチに座るのを防止することだった。この会議後、ゲッベルスが大管区指導者(いわば市長)を務めるベルリンにおいて実施したことは、指定された街路、広場、公園などへユダヤ人が立ち入ることの禁止であった。

 

 

 

ユダヤ人記章の導入はドイツ人とユダヤ人との交流にいかなる影響をもたらしたか。

 

ナチは政権に就いて以後、ユダヤ人はドイツ民族とその国家の破滅をたくらむドイツ民族にとっての不倶戴天の敵、との教育・宣伝に力を入れた。同時に、ドイツ人がユダヤ人との交流を控えざるを得ない社会的雰囲気を作り上げことに努めた。その結果1930年代の後半になると、ユダヤ人との交際をはばかる風潮がドイツ人の間で広まっていた。自分がユダヤ人と交際していることが警察やナチ党員に知られ、その密告により、自分が国家にとって好ましからざる人物とされることを恐れるようになっていた。

 

ナチが政権に就いて数年経ったが、まだ記章が導入される前の時期、あるユダヤ人が日記に、この頃自分が知り合いのドイツ人に話しかけようと近づくと、会話を避けようとする人が増え、接触すること自体を避けようとする人も出るようになった、と書いている。このような雰囲気の中であるから、胸に黄色い大きな記章を着けた知り合いが、親しげに自分に近づいてきた時のドイツ人の困惑ぶりは想像に難くない。自分がユダヤ人と交際していることが他者に一目瞭然である。ユダヤ人記章導入後、おおかたのドイツ人は知り合いであるユダヤ人との接触を避けるようになった。

 

ユダヤ人記章導入の目的はユダヤ人をドイツ社会において孤立させる、すなわちドイツ人とユダヤ人との接触を断ち切ることにあり、多大の効果をあげた。 

 

 

ユダヤ人の行動の自由を空間的・時間的に制限したこと、ユダヤ人をドイツ人と同じ住宅に混住させず、ユダヤ人はユダヤ人だけが住む住宅に集中して住ませたこと、ユダヤ人にユダヤ人であることを示す印をつけさせたこと、これらの政策の目的は,ユダヤ人を自由に歩き回らせないこと、アーリア人たるドイツ人に接触させないこと、ユダヤ人がどこにいて何をしているか一目瞭然にすることだった。

 

ナチの思想がこれらの政策を推進させた。つまり、ユダヤ人は放っておくと、かならずドイツ人の耳元でナチの悪口をささやく、という決めつけだ。ナチの極め付きの常套句である「ユダヤ人の扇動」だ。ユダヤ人は、ドイツ国民をナチから離反させるため、ナチとその政府の悪口をささやく、今悪口を言わない者があるとしても、一時的なものであって、いつか必ず何かの機会に悪口を言い出す、これが真正のナチの信念だ。ヒトラーは真正ナチの筆頭であり、ナチ組織の幹部は、真正のナチか、真正のナチであろうと努める者かのいずれかであった。ヒトラーはそういう者しかナチ幹部に登用しなかった。そのような者たちが、ユダヤ人の扇動がドイツ国民に及ぶのを防ぐためとして、これらの政策を推進したのだ。 

 

 

ユダヤ人の運転免許の剥奪したのは、ユダヤ人があちこち移動することを制限する趣旨であった。ユダヤ人は地下鉄や路面電車やバスなどの公共交通機関を利用することを厳しく制限されたが、これはユダヤ人とドイツ人の接触を防ぐためとユダヤの行動範囲を制限するためであった。 

 

 

ユダヤ人の所有するラジオ受信機の没収の目的は、ユダヤ人が外国放送から仕入れた敵側の宣伝を、ドイツ国民に吹き込むのを防ぐため。敵側の宣伝とは、ドイツがこの戦争に負けることは必定、ドイツ国民は政府発表の嘘と戦争継続方針の誤りに気付かなければならない、とかの内容のもの。ユダヤ人は自宅の電話機を没収され、公衆電話の使用も禁止されたが、この目的は、ユダヤ人同士の情報交換の遮断とユダヤ人が電話を使ってドイツ人を反ナチの方向に扇動するのを防ぐため。

 

 

 

ユダヤ人をユダヤ人だけが住む住宅にまとめて住まわせる政策を指示したゲーリングは、その理由を、ユダヤ人とドイツ人が同じ住宅に住むと、ドイツ人がユダヤ人の扇動を受けてしまうので、それを防ぐためとした。

 

1940年ごろには、ドイツ人労働者とユダヤ人労働者が一緒に働く職場は排除されつつあった。一緒にいるとドイツ人労働者がユダヤ人労働者の影響を受けてしまうからである。この頃、ユダヤ人とドイツ人がいまだに同じ職場で働いていることを知ったヒトラーは激怒した。その理由として彼は、一緒にいるとドイツ人の士気が挫かれてしまうから、とした。

 

 

 

 

復習の1。ドイツのユダヤ人はナチが政権に就く以前、ドイツの政治、経済、文化の各分野で大きな力(ナチはこれを影響力と呼んでいる)を有していた。ドイツのユダヤ人は、反ナチ扇動者という側面のほかに、ドイツ社会において巨大な力を有するという側面を有していた。ユダヤ人のこの力を剥奪することが、初期のナチ政権の最も緊急にして重要な課題であった。

 

政治分野においては、マルクス主義政党(ドイツ共産党、社会民主党)において多数のユダヤ人が重要な地位にあった。前述のごとく、ナチ政権樹立後まもなくして、ドイツはナチ党独裁体制となったから、ナチ党員以外に国政政治家はいなくなった。いうまでもなくユダヤ人政治家もいなくなった。というより、真っ先にいなくなったのが、ユダヤ人政治家とユダヤ人が活躍する政党であった。政治分野におけるユダヤ人の影響力は消滅した。

 

経済分野においては、ドイツのユダヤ人には裕福な商店主が多く、ユダヤ人はドイツ小売業における最大勢力であった。卸業をはじめとする企業経営にも勢力を有していた。ナチはこの状況に荒々しいメスを入れた。ユダヤ人に対し業種を問わず自営業と企業経営を禁止した。その事業のほとんどは、ドイツ人に安値で譲渡された。経営者であるユダヤ人は消滅し、ユダヤ人の職業は低賃金労働職に限られるようになっていった。いままで蓄えた資産の下でまあまあの生活をしばらく続けられるユダヤ人もいることはいた。ドイツ経済におけるユダヤ人の力は消え去った。

 

文化の分野においては、ユダヤ人の影響力は何といってもマスコミにあった。とりわけ新聞界がそうで、ドイツの有力紙、高級紙の多くはユダヤ人経営のもとにあった。世論形成におけるユダヤ人の影響力は大きかった。ナチは政権安定のため不可欠な措置としてとして、新聞界からユダヤ人経営者や記者を追放した。ドイツ・マスコミにおけるユダヤ人の力は消え去った。

 

 

 

復習の2。ユダヤ人はドイツ人の耳元でナチの悪口をささやき、ドイツ人をナチから離反させようとする扇動者である。ユダヤ人は反ナチ扇動者。これは真正のナチにとってゆるぎない信念であった。だからナチはさまざまな法令を作って、ユダヤ人がドイツ人に接触できないようにした。接触できなかったら扇動できないからだ。すなわち、行動範囲と行動時間とを制限した。ユダヤ人をユダヤ人だけが住む住宅に集中し、ドイツ人との混住を禁じた。胸にユダヤの星印をつけさせ、ユダヤ人とドイツ人の接触を一目瞭然にした。これらの政策の狙いは、扇動者ユダヤ人が自由に動き回り、自由にドイツ人に接触し、反ナチ扇動を行うのを防止することにあった。すなわちユダヤ人の扇動者としての側面を抹殺するための施策であった。

 

 

 

 

ドイツの政治・経済・文化におけるユダヤ人の力を取り除くこと、ユダヤ人がドイツ人を扇動することを不可能にすること、この二つがナチの対ユダヤ人政策の根幹であった。しかしナチのユダヤ人政策の最終目標は、ドイツをユダヤ人のいない地にすることであった。

 

ヒトラーは政治家として出発した当初から、いつの日かドイツをユダヤ人のいない地にすることを目標としていた。大衆向け演説においても、党内講話においても一貫してそのことを主張している。まずは、ドイツ・ユダヤ人が政治・経済・文化において有する力ないし影響力を抹消する。次にユダヤ人がドイツ人を扇動できなくする。そうしている間も、ユダヤ人の国外移住を極力推進し、早晩ドイツを一人のユダヤ人もいない地にする、これがヒトラーの不変の目標であった。 

 

 

ナチ政府はユダヤ人をドイツ帝国およびドイツ支配領域からユダヤ人を排除することを追求し続けた。個人ないし家族単位の移住政策として、ドイツ帝国のユダヤ人に対し、帝国外に移住するよう圧力をかけ、実際ドイツ帝国から多くのユダヤ人を国外に移住させた。

 

さらに、大量移送を二つ計画した。一つは、ポーランド占領後後、ポーランドの東端にポーランドとドイツ帝国のすべてのユダヤ人を集中しようとした。これは少しやっただけで中止した。二つ目として、対フランス戦勝利後、当時フランス領であったマダガスカル島にドイツ支配下にあるヨーロッパのすべてのユダヤ人を移住させようとした。これは実施に至らなかった。 

 

 

以下それぞれについて説明する。 

 

 

ナチがドイツを支配するようになって以降、ドイツ国外で新しい生活を切り開こうとして、多くのユダヤ人若者がドイツを離れて行った。資産があり移住に必要な資金を用意できる富裕層の少なからぬ数が国外移住の道を選んだ。老人の多くは今のままドイツにとどまろうとした。1933年のナチの政権獲得当時、ドイツには約50万人のユダヤ人が生活していた。1938年11月ナチは対ユダヤ人暴力行動(いわゆる水晶の夜)を起こしたが、そのときまでに約15万人が移住していた。この暴力行動以後、ドイツにいまだ残っていた資産家たちが大急ぎでドイツから脱出し、今までに脱出した分と合わせドイツ・ユダヤ人の富裕層の大部分は国外に出てしまう結果となった。ドイツに残るユダヤ人の大部分は無産者層となった。そこでナチはユダヤ人の持たざる層の移住に注力することにした。ナチ政府は出国を希望する富裕層から出国税などさまざまな名目で多額の金を取り立てていた。それを持たざる者の渡航費用と他国入国のための資金に当てた。結果として、1939年9月のポーランド侵攻開始までに約30万人が国外に移住した。ポーランド侵攻直前ドイツに残っていたユダヤ人20万人の約半数は裕福でない老人であり、残りの半分は裕福でない労働者とその家族であった。それ以外に独身者が少しばかりいた。ナチはこれらの者についてもドイツにおいておく気はさらさらなく、さらに数万人を国外移住させた。1941年秋になると、ドイツに暮らすユダヤ人は十数万に減少していた。 

 

 

1939年9月、対ポーランド戦勝利後、ヒトラーはドイツ帝国とポーランドのすべてのユダヤ人をポーランドの東端に位置するルブリン地区に集結させる構想を明らかにした。しかし、そもそも巨大集団を収容するための空間(土地)の手当自体が難しかった上に、軍部がソ連との国境近くにユダヤ人の巨大集団を出現させるのは軍事上危険として反対した。結果として、わずかばかり実行しただけで、1940年4月までに計画が放棄された。 

 

 

対フランス戦勝利後の1940年夏、ドイツ支配下にあるヨーロッパのすべてのユダヤ人を当時フランス領であったマダガスカル島に移住させるとの構想が親衛隊と外務省とにより検討された。しかし、当時ヨーロッパから同島への海上輸送路は交戦国イギリスが支配していたため、同島へユダヤ人を運ぶドイツ輸送船の安全確保に不安があった。結果として、イギリスとの戦争の早期終結が見込み薄となった1940年の終わり頃には、この構想は当面断念するということになった。ちなみにナチはこの島に運んだユダヤ人をどうするつもりだったのか。ユダヤ人が島外に脱出しないよう親衛隊が厳重に管理しつつ、時間をかけ、「自然消滅」させたかったらしい。

 

 

 

ここで簡単に復習。ドイツ・ユダヤ人のドイツから追放は、最初、個人・家族単位の、国家間移住という形で行われた。ドイツを出国し、移民という形で、受け入れ国へ入国する方法だ。ナチは別の方法も模索した。一つは占領したポーランドに、二つ目はマダカスカル島に、ドイツ・ユダヤ人の全員を移送するという計画であった。そのいずれも実現に到らなかった。

 

 

 

ソ連との戦争開始後、ドイツ・ユダヤ人の追放に関し、新局面が生じた。 

 

 

1941年9月16日に、ヒトラーが、ヒムラーに対し、ドイツとドイツの保護領であるチェコをできるだけ早期にユダヤ人のいない地域にしたい、との意向を表明した。当時ヒトラーは、戦時下のドイツとくにその主要都市にユダヤ人が存在することが気になって仕方なく、機会あらば、彼らをドイツの東方に追っ払いたいと思っていた。9月中旬になって、ソ連戦線の北方面と南方面における戦いに大きな進展があって、残る中央方面(ここに首都モスクワがある)の攻略に成功すれば、ドイツ・ソ連戦争の大勢は決する見込みとなった。このときヒトラーは戦争の勝利を確信しつつあり、気分は高揚していた。そういうわけで、ヒトラーにしたら、この辺で、いよいよドイツ帝国のユダヤ人の追放を本格的に開始するかという気持ちになった。鉄道輸送能力の問題もあり、すぐに大量に、というわけにもいかないが、ともかく本格的行動に着手させる、帝国の主要都市については最優先に追い出しを始める、と決心し、それをヒムラーに実行させることにした。 

 

 

ヒムラーはヒトラーの意を汲んで、とりあえずの分として、70,000人ほどのユダヤ人をポーランドのウッチ・ゲットーと占領したソ連の三つの都市にあるゲットー(ソ連のユダヤ人が入っている)あるいは収容施設に送ることにして、結果的に5万数千人を輸送した。

 

秋から冬にかけてのポーランドやソ連に送るということは、極寒の地に送るということだ。その地のゲットーの食糧は乏しく、住居事情は劣悪であった。この計画で輸送されるユダヤ人の主体は老人だったから、劣悪な生活環境の下、多くが厳しい冬を乗り切れずに、寒冷死、餓死、病死、衰弱死、いずれにしてもみじめな形で死に至ることは確実であった。ヒトラーとヒムラーは、そこに送られたユダヤ人の多くがそういう形で死んでゆくことを予想していた。ヒトラーにとっては、ドイツのユダヤ人をドイツから追い出すことが唯一重要なのであって、追い出した後の彼らの運命については関心がなかった。行き着いた先で、早く死ぬ者は早く死ねばよいし、遅く死ぬ者は遅く死ねばよい。ともかくドイツから早くユダヤ人がいなくなりさえしたら、それでよいのだ。ナチのドイツ・ユダヤ人に対する施策は新しい段階を迎えた。

 

 

 

移送は1941年10月15日に開始され、1942年2月21日に終了した。合わせて53,000人を超えるユダヤ人が移送された。行先の内訳は、ポーランドのウッチへ約20,000人、ソ連のミンスク、カウナス、リガに合わせて約33,000人である。ベルリン、ウィーン、プラハ、ハンブルクー、デュッセルドルフ、ケルン、フランクフルト、ミュンヘン、テレージエンシュタット、ミュンスターなどの都市から送られた。ベルリン、ウィーンからの移送数が特に多かった。

 

53,000人は当時のドイツ、オーストリア、保護領チェコに住んでいたユダヤ人合わせて300,000人の20パーセント弱であった。

 

 

 

移送の目的地に到着した者は、その地のゲットーや臨時収容施設に収容された。移送された者は、さしあたり殺されなかった。例外的に千人ほどが現地に到着するや否や射殺されたが、それはすぐに中止された。移送された者の多くは、年配の男女であった。子供も少しいた。食糧配給は乏しく、多くの者が厳寒の1941―42年の冬を乗り越えられず、衰弱死、寒冷死した。残った者は、1942年の春から、殺され始め、最終的に全員殺された。その時にはすでに、ドイツ領域のユダヤ人にとどまらず、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅方針が下されていた。

 

 

 

 

ヒトラーにおいて、ユダヤ人をドイツ国外に追放することは比較的高揚した気分において始まった。この辺で念願のユダヤ人追い出しを始めるか、と。ところがしばらくすると、ヒトラーにとって、ドイツ・ユダヤ人国外追放は戦争を継続する上で不可欠のことがらとなった。 

 

戦局が変わりつつあった。10月2日ヒトラーは自信満々にモスクワ総攻撃を開始させたが、ソ連軍の抵抗が予想外に頑強でモスクワ防御線をどうにも突破できない。10月10日過ぎになって、恐れていた雨と雪が降りだし、道路が泥濘化し、ドイツ軍の前進が困難となった。ドイツ軍の進撃は道路が凍結するまで一時停止となった。ヒトラーは6月に独ソ戦を開始するにあたり、年内に戦争の大勢を決する必要があると考えていた。年内にモスクワ、レニングラードを防衛する敵軍主力を壊滅させ両都市を奪取する。かつ農業・工業資源の中心地であるウクライナを占領する。そうすれば、敵は立ち直る力を失うし、残るは掃討戦だけとなる。もし年内にそれを達成できずに、年を越し長期戦になれば、膨大な人口と豊富な資源を有する敵は有利になり、わが方は不利となる。敵は第一回のモスクワ総攻撃をしのいだ。したがって、首都モスクワと敵軍主力は健在である。ヒトラーはなんとしてでも年内にモスクワを攻略すべく、総攻撃を再開するつもりであった。攻勢を成功させる自信がないわけではなかった。しかし、一方で、モスクワを陥落させられないまま、年を越し長期戦に突入する事態もありうることをヒトラーは認識していた。これが1941年10月下旬から11月にかけてのヒトラーの心中であった。(参考のためこの後の経過を書く。11月7日に道路が凍結しだし、11月19日にモスクワ総攻撃を再開するが、落とせない。ヒトラーはモスクワの年内攻略に固執し、12月2日に再び大規模攻撃を始めるが、12月5日、ソ連軍が空前の兵力をもって大反攻を開始した。)

 

対ソ戦開始以来、ヒトラーの関心事のほとんどすべては戦争のことであったが、ドイツ国内の世論の動向についても注意を怠らなかった。当然ながらドイツ国民は長期戦が自分たちにもたらす苦労を嫌っていた。ドイツ国民にとってソ連との戦争が短期に集結するのか、それとも長期戦になるのかは、大きな関心事だった。モスクワ攻撃を開始して1か月経過しても、いまだモスクワを落とせない。国民の多くが、戦争の大勢を決せないまま、年を越し長期戦になることを予想した。空襲の被害、乏しい食料配給、耐乏生活がこの先も続く。国民の不満が溜まってゆく。ヒトラーは長引く耐乏生活が国民の間に厭戦主義を成長させることを当然ながら知っていた。潜在していた扇動集団がそのとき動き出し、国民の不満と厭戦気分を休戦・講和を求める国民大世論に集約させ、さらには大衆的政治行動に発展させようとすると予想もしていた。ヒトラーによれば、第一次大戦の終結の仕方がそのようなものだったからだ。すなわち、ユダヤ人とマルクス主義者が、国民の不満と厭戦主義を煽り立て、巨大化させ、その国民大世論を背景に、軍指導部を休戦方針に追い込み、さらには革命を実現させた、と。 

 

 

ヒトラーは、政府が国民に辛いことを長期間押し付けたら、国民の間に政府に対する不満が広まってゆくことを当然知っていた。国民の政府に対する不満感情が高まりを見せたとき、必ずそれを煽り立て、政府への反対運動に結びつけようとする集団が登場する、と予想していた。これは一般論としては間違っていない。不満を煽り立てられ、反政府感情の塊と化した国民の大集団が首相府を取り囲み、政府の根本政策の転換を要求する、さらには政権転覆を企むであろう、と予想していた。これも一般論としては間違っていない。しかしヒトラーは、このような事態を未然に防止するために、人類史上空前の治安維持体制を作り上げ、稼働させていた。ヒトラーの、変わっているというか、異常なところは、このような体制を作り上げたのちも、政府への大規模な反抗が生じうると常時心配していたことにある。少し説明すれば、親衛隊という強力な治安組織をつくり、国民をくまなく監視し、取り締まった。強制収容所をドイツ各地につくり、ナチから見て政治的に危険と思われるドイツ国民を、余さず収容した。政治的に危険な者とは、反政府扇動を行ったり、反政府行動を組織しようとする者のことで、主に左翼主義者だ。さて、ナチが政権を取って数年後には、表立って反政府扇動を行うようなドイツ国民はいなくなった。仮にそのような者が現れ扇動することがあっても、ナチへの反抗は自分と家族の平和の終焉を意味することをすでに熟知している、当時のドイツ国民が扇動に乗るようなことはあり得なかった。扇動されて、ナチ政府への反抗心をあらわにすることも、腕を組み合ってデモ行進をやりだすことも、あり得なかった。ましてや、扇動され熱狂する国民の大群が首相府を取り囲み、政府の根本政策の転換を要求し、さらには政府転覆を企むことなど、到底あり得なかった。仮にそのようなことがあったとしても、実力部隊を出動させ、鎮圧すれば済むことである。しかし、ヒトラーは違っていた。国民の不満がたまる→扇動者が現れ、国民の不満を煽り立てる→扇動され、不満を燃え上がらせた群衆が反政府行動を始める→政府と反政府群衆が衝突し、国内の政治的安定が揺らぐ。このような流れが十分起こりうると、ヒトラーは、完璧な治安維持体制を作り上げたのちも、信じていた。 

 

 

ナチから政治的危険分子とみなされたドイツ国民はすでに強制収容所に囚人としてとらわれていた。ドイツ国内の強制収容所の囚人の大部分はドイツ人で、左翼主義者が多かった。ドイツ国内の強制収容所は、ユダヤ人をユダヤ人であることを理由に収容するところではなく、ここに囚われているユダヤ人はドイツ人囚人とおなじく政治的危険分子としての存在であった。しかし言うまでもなく、両者に対する待遇は明確に異なり、ドイツ人囚人は生き永らえる可能性があったが、ユダヤ人囚人は遅かれ早かれ殺された。

 

元に戻る。ヒトラーは、ドイツ国民の反政府感情が高まり、社会の秩序が不安定になるような状況が出来(しゅったい)したとき、これらドイツ人囚人が収容所を脱出し、国民を扇動して反政府行動を組織するだろうと予想していた。ヒトラーは、反政府行動を反乱とも呼んでいた。そして明言しているのだ。ドイツ国内に不穏の兆しが少しでも見えたら、ただちに収容所の囚人を全員殺す、すでにこのことはヒムラーに命令してある、と。   1941年9月にこのようなことを言いだし、その後何回となく同じ言葉を繰り返している。1942年7月には、不穏分子を強制収容所にまとめてあれば、いざというとき直ちに一人残らず抹殺することが可能だ、とも言っている。ここにヒトラーの異常さ、すなわち病的警戒心がある。国民は、親衛隊と無数のナチ党員の猜疑的な目により、くまなく監視され、政府への反抗は自分と家族の破滅を意味することを国民の誰もが熟知する当時のドイツ社会で、多数の国民がその不満感情を具体的な反抗態度に示すことなどあるはずはない。仮にもしそのような状況が生じたとしても、親衛隊が厳重に管理している強制収容所の囚人が、どのようにしてその動きに合流するというのか。武装した親衛隊の阻止を排して収容所を脱出することなど不可能だ。それとも収容所を取り囲む群衆が、警護の銃弾をものともせず収容所の門に突進しこじ開けようとするというのか。そんなことあり得ない。しかしヒトラーの頭脳においては、あり得た。 

 

 

ヒトラーの病的警戒心を示す逸話がいくつかある。ポーランド侵攻前の1939年、将来のベルリン改造計画(これが実行に移されることはついぞなかった)をめぐってヒトラーとスタッフが話し合った。首都中心部の広場の構想が話題になったとき、ヒトラーは言った。将来私が国民に不人気な政策を打ち出しざるをえないこともありうるが、その時おそらく国民暴動が起きるだろう、そのようなことも考慮に入れておく必要がある、したがって広場を囲む建物の、広場に面しているすべての窓には鋼鉄製の防弾扉が付けられなくてはならない、と。さらに続けて、通りを埋め尽くした反乱集団が官邸に向かってきたときのことも考えておかなくてはならない、と。結果として、強力に武装した近衞連隊が官邸の至近距離に配備されることになった。

 

いまひとつ。1943年春の話。ベルリンにはポーランドから連行されたポーランド人労働者の大群が存在していた。軍需工場で働くユダヤ人熟練労働者も相当数いた。ヒトラーは、これらユダヤ人労働者とポーランド人労働者が連携して反乱を起こすことを恐れた。そこでヒトラーは、反乱の兆しが少しでも見えたら、彼直属の武装親衛隊装甲師団“親衛旗アドルフ・ヒトラー”を戦地のウクライナからベルリンに呼び戻すことにした。最強と定評のあるこの師団がベルリンに駆けつけて来ると知ったら、反乱を計画する者たちもその実行に二の足を踏むであろうと読んでのことであった。大群のポーランド人労働者も何千人かのユダヤ人労働者もそれぞれ別個にまとめられ、ドイツ人の監視のもとに働かされていた。両者が接触することはありえなかったし、両者とも反抗に決起する意思は皆無であった。 

 

 

《2017年7月10日追記。

ヒムラーは後年、ドイツからユダヤ人を除去する目的に言及している。

 

1943年10月4日にポーゼンで開催された親衛隊中将会議において、ヒムラーは、ドイツのユダヤ人をいまだに処理していなかったとしたら、今頃ドイツは1916年ないし1917年の状態になっていただろう、と述べた。1916、17年当時のドイツは、長期の戦争がもたらす食糧不足などが原因で、国民の間に政府に対する不平、不満が渦巻き、かつ戦争停止を求める厭戦主義が広まっていた。政治ストも頻発し、兵士の暴動も起きていた。ヒトラーやヒムラーの考えでは、こうした動きを扇動したのは、ユダヤ人とマルクス主義者であった。ヒムラーは、ユダヤ人が今なおドイツに存在していたら、彼らは1916、17年にやったと同様の扇動を行うことになっていただろう、と言っているのだ。

 

また、これより二日後の6日に開かれた、大管区指導者・帝国指導者会議において、ヒムラーは、ユダヤ人がまだドイツに居残っているとしたら、近いうちに5年目を迎えるであろう戦争に耐えられるはずはない、と述べた。この発言の趣旨も二日前のそれと同じで、ユダヤ人が今なおドイツに存在していたら、彼らはドイツ国民に対し厭戦主義を吹き込み、戦争継続を不可能にするだろう、という意味だ》。

 

 

 

繰り返し述べたが、ナチから見て、ドイツのユダヤ人には二つの側面があった。経済、政治、文化の各分野において大きな力ないし影響力を有する側面。この側面の解消は、力の根源である職業からユダヤ人を追放することにより達成された。もう一つの側面すなわち扇動者としての側面の解消は、ドイツ人とユダヤ人の接触を断つという政策でなされた。この政策により、ユダヤ人がドイツ人に接触することは相当困難になった。しかし、両者の接触が全く不可能になったわけではないから、ユダヤ人がドイツ人に接触して、耳元で何らかをささやいて扇動することはいまだあり得たわけだ。そこまで考えるか、と思われる方もおられるだろうが、そこまで病的に警戒するのが、ヒトラーであった。ナチ政権にとっての危険人物には二種あった。ドイツ人の危険人物とユダヤ人である。前者はすでに強制収容所にいれてあるが、ヒトラーはすでにこれらについて、社会に不穏な動きの兆候が見られたら、先手を打って全員を殺すと決め、それをヒムラーに指示していた。ユダヤ人についてはその行動の自由を厳しく制限しているが、いまだ規制の範囲内で、ドイツ社会を歩き回っている。 

 

 

1941年10中頃から11月にかけて、ヒトラーは、ドイツのユダヤ人全員の国外追放を決断した。9月にヒムラーに対し国外追放の意向を表明したときの、やや余裕のある気分と異なり、今回は真剣であった。この先、空襲、配給不足などにより国民の不満が高まることがあるとしたら、その時こそ、ユダヤ人は、政府の誤りをドイツ人の耳元でささやき、政府への不満を増長させようとするだろう、とヒトラーは確信した。彼はユダヤ人の扇動の言葉を脳裏に浮かべた―本当のところ、現在ソ連での戦いは泥沼にはまっています、我が国はこの戦争に勝てません、空襲と配給不足はひどくなるばかり、国民が苦しむだけ、今の政府は国民のことなど何も考えていません、このままでよいのでしょうか、今の政府を信頼しててよいのでしょうか・・・。ユダヤ人をこのままドイツに残しておくということは、反ナチ扇動者をドイツにおいておくということである。そのような迂闊をなしてはならない。ヒトラーはユダヤ人をドイツから可及的速やかに追放することを決めた。 

 

 

さて、ドイツ領域(帝国と保護領)からのユダヤ人移送は二段階に分かれる。すでに述べたが、第一段階は、1941年10月15日に開始され、1942年2月21日に終了した分。ドイツ領域の大都市から、ドイツが併合したポーランドにあるウッチやドイツが占領するソ連にあるいくつかの都市に向けて、当時のドイツ領域に住むユダヤ人の2割弱が送られた。移送の目的地に到着した者は、その地のゲットーや臨時収容所に収容された。かれらは、さしあたり殺されなかった。移送された者の多くは、年配の男女であった。子供も少しいた。食糧配給は乏しく、多くの者が厳寒の1941―42年の冬を乗り越えられず、衰弱死、寒冷死した。残った者は、1942年の春から、殺され始め、最終的に全員殺された。

 

第二段階は、1942年3月下旬から移送された分。これはいわゆるヴァンゼ―会議開催後に計画された分だ。ヴァンゼ―会議とは1942年1月20日に親衛隊主催で開かれ、ドイツ中央省庁からの出席者の間で、ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させる方針が共有されることになった会合だ。だから第二段階の移送はすべてガス室を備えたポーランドの収容所向けに行われた。収容所には殺すことを専門とする絶滅収容所と、殺すことと労働力を利用することの両機能を備えた収容所とがあった。前者に送られた者は収容所到着後、全員が可及的速やかにガス室に送られ、後者に送られた者は、収容所到着直後に選別され、労働者として利用できる者は、必要な数が、必要とされる期間、生かされ働かされた。労働者として利用価値がないとされた者は可及的速やかにガス室に送られた。老人、子供はすべて後者であり、女性のほとんどもそうである。一度は労働力として生かされた者も、一握りの運のよかった者を除き、最終的には殺された。ちなみに、可及的速やかに、とは、ドイツ人としては、役に立たないユダヤ人は収容所に到着次第ガス室に直行させたいのだが、先陣があって、ガス室や焼却炉が空いてないこともあった。そういう場合は順番待ちとしてバラックで幾日かを過ごし、それらが空き次第処理された。 

 

 

軍需工場で働くユダヤ人熟練労働者とその家族は、ドイツから最後に運び出されたユダヤ人であった。軍と軍需企業経営者が移送しないよう政府に要望していた。しかし1942年末になると、これらユダヤ人労働者もポーランド人労働者と代替できるようになり次第、東方の収容所に移送されることになった。この方針を決定したヒトラーによれば、理由は「国内の安全」のためであった。これらユダヤ人労働者が家族とともに着いた先は、アウシュヴィッツ収容所であった。家族は全員すぐにガス室に送られ、労働者本人については、収容所内にあるドイツ企業が必要とする者は働かされ、必要とされなかった者は家族同様ただちにガス室に送られた。 

 

 

戦争が終わったとき、ドイツで生き残っていたユダヤ人は、ドイツ人の配偶者を持つユダヤ人が約1万人、ドイツ人の血が半分混じっているが「混血児」と認定されないユダヤ人(ユダヤ人該当者、と呼ばれた)が千数百人、特別な事情があって殺されることを免れているユダヤ人数百人など、合わせて1万数千人だった。ちなみに、ユダヤ人の血が混じっていても「「混血児」と認定された者はユダヤ人ではなかった。「「混血児」のほとんどは殺されなかった。 

 

 

ドイツのユダヤ人について長々と説明してきたが、要約しておこう。

 

ナチは、ドイツをユダヤ人のいない土地にすることを最終目標としていた。ドイツからユダヤ人をいなくすることはすぐにできることではなかったが、ナチは途中で断念することなく、努力を続けた。この最終目標と併行して、ナチのユダヤ人政策には大きな柱が二つあった。一つは、ユダヤ人がドイツの経済・政治・文化の各分野において有する力を奪い取ることであり、もう一つは、ユダヤ人がドイツ人を扇動できないようにすることであった。最初にやるべきは前者であったが、ユダヤ人を多くの職業から追放することにより、これを成し遂げた。後者はナチ独特の警戒心に由来するものであった。ナチにとって、ユダヤ人はその本質において反ナチ扇動者であった。すなわちドイツ人の耳元でナチの悪口をささやき、ドイツ人をナチから離反させようとする者たちであった。ナチはユダヤ人が扇動者として行動することを不可能にしようとした。その方法はユダヤ人とドイツ人の接触をなくすことであった。ユダヤ人の行動範囲は制限され、識別用の記章が強制された。ユダヤ人がドイツ人に接触することは相当困難になった。それでもナチからすれば、ドイツにユダヤ人が存在する限り、ユダヤ人がドイツ人に接触し扇動することは可能であった。彼らは依然として国外追放の対象であり続けた。ナチが政権に就いたとき、ドイツにはおよそ50万人のユダヤ人が暮らしていた。ソ連との戦争が始まったとき、その数は十数万人に減っていた。戦争の推移の中で、ヒトラーはドイツに残っているユダヤ全員をドイツ国外に運び出すことを決定した。ドイツから扇動者としてのユダヤ人が消滅し、合わせてナチの対ドイツ・ユダヤ人政策の最終目標、すなわちドイツをユダヤ人のいない地にする目標も実質的に達成された。 

 

 

 

ポーランド 

 

1939年9月、ポーランドに対し、ドイツが西方から侵攻し、ソ連も東から侵入した。両国の協定により、西半分はドイツに、東半分はソ連に分割統治されることになった。ドイツ領分に約200万、ソ連領分に約100万のユダヤ人がいた。1941年6月にドイツとソ連との戦争が始まり、ドイツ軍が境界を越えソ連領ポーランドに進攻、ソ連が退却したので、ポーランド全域がドイツの支配下に入った。このポーランドにいた総計300万人のユダヤ人のほとんど全員をドイツ人は殺してしまった。 

 

 

ソ連領となっていたポーランドが独ソ戦勃発後ドイツの支配下に入るより前のこと、ドイツに占領支配されたポーランドの地にはおよそ200万人のユダヤ人が住んでいた。西部はドイツ帝国に編入され、東部はドイツの属領として、総督府と名付けられた。総督府には行政の長として総督が派遣された。ドイツ帝国に編入された部分には60万、総督府となった部分には140万、合わせて200万人のユダヤ人が住んでいた。これらのほぼ全員が第二次大戦中にドイツ人の手により殺された。ほとんどが、ガス室、ガス・トラックによるものだ。ポーランドで生き延びたユダヤ人は、収容所で働かされているうちにソ連軍が近づいて来て、ドイツ人が収容所のユダヤ人を殺す間もなく逃げ出したため死を免れた者や、森に隠れ住んでいた者など、わずかの数にとどまった。子どもは100パーセント殺されたって言ってよい。 

 

 

ドイツ軍によるポーランド侵攻は1939年9月1日に開始された。9月12日、ヒトラーは軍首脳部を前にして、ポーランドのすべての抵抗要素を破壊することが肝要だ、特に、聖職者、貴族、知識階級、それにユダヤ人を取り除くことが必要だ、と述べた。抵抗要素とは、ドイツ支配に対しポーランド国民の抵抗運動を組織しようとする者たちを指す。ポーランド社会の指導層と言ってよい。ドイツの保安警察は、侵攻前から、抵抗要素として逮捕すべきポーランド人を3万人ほどリストアップしており、侵攻後短い期間に、2万人近い数を逮捕処刑している。聖職者、貴族階級、知識人、教職者などだ。 

 

 

さて、問題のユダヤ人をどうするかである。ユダヤ人はポーランド全土にわたり、都市には大集団が、田舎には小集団が住んでいた。ナチが支配下に入った200万のユダヤ人大集団をそのままにしておくことは考えられなかった。ナチにとって支配下にあるユダヤ人はすべて監視と管理の対象であった。ドイツ帝国のユダヤ人はこの時すでに、厳しい時間的・空間的行動制限を課され、ユダヤ人だけが住む集合住宅に集中されつつあった。そうすることの理由は、反ナチ扇動者であるユダヤ人がドイツ人に接触することを防止することにあった。200万のポーランド・ユダヤ人も監視と管理の対象であった。しかし、それはドイツのユダヤ人に対するものと意味の異なるものであった。つまり、ポーランドのユダヤ人が、ポーランド人に対して反ナチ扇動する危険を第一に問題視したものでなかった。一般のポーランド人はポーランドのユダヤ人を見下し、嫌ってもいたから、ユダヤ人の扇動を受け入れることなど考えられなかった。しかしヒトラーに200万ものユダヤ人を今のまま自由に動き回らせておく気はさらさらなかった。 

 

 

ヒトラーの考えた管理方法は、ポーランド全土のユダヤ人を1か所にまとめてしまうことであった。総督府の東端、ソ連との国境に近いルブリン地区にユダヤ人特別居住区をつくる構想だ。親衛隊保安警察長官のハイドリヒがこの計画に関与することになった。ハイドリヒは、ポーランドのユダヤ人をこれから設置することになるこの居住区に移動させるのは、少しばかり時間がかかるとし、ひとまず、「よりよく管理するためと将来の移送のため」都市のゲットーに集中することとした。ポーランド全土のユダヤ人はいくつかの都市に集中され、都市においてはゲットーに入れられることになった。ハイドリヒは田舎にいるユダヤ人を都市に集め始めた。しかしユダヤ人特別居住区が実際に設置されることはなかった。ヒトラーはこの計画を1940年4月までに放棄した。この計画のための土地を確保すること自体が困難であったし、軍が軍事的観点からソ連との国境近くにユダヤ人の巨大集団が出現することに反対した、などの理由からである。ちなみにヒトラーの構想では、この居住区には、ポーランドのユダヤ人にとどまらず、ドイツ帝国のユダヤ人をも集中することになっていた。 

 

 

ヒトラーは1938年の秋ゲーリングに対して、当時フランス領であった東アフリカのマダガスカル島にヨーロッパのユダヤ人を移動させるという構想を披露していた。対フランス戦勝利後の1940年夏、ドイツ支配下にあるヨーロッパのすべてのユダヤ人をこのマダガスカル島に移住させるとの計画が、親衛隊と外務省とにより検討されだした。しかしこの構想は、イギリスとの戦争が継続中は海上輸送が困難であるなどの理由により、  1940年の終わり頃には当面断念するということになった。 

 

 

以上のようにポーランド(帝国編入地域と総督府)のユダヤ人の集団移住先の候補地は、最初に総督府の東端のルブリン地区、つぎにマダガスカル島と続いたが、1940年末までにはいずれも断念された。しかし、ポーランド全土のユダヤ人を都市へ集中させることと、都市に集中されたユダヤ人をゲットーに閉じ込める作業が停止することはなかった。1941年末までにはポーランドのユダヤ人のほとんどは都市のゲットーに収容された。ゲットーと言っても、そのすべてが壁で囲まれているわけではなかった。標識で境界が示されているだけのものもあった。しかし、許可なくその外に出ることは厳しく禁止されていた。 

 

 

ナチの手によりゲットーに押し込められたポーランドのユダヤ人が再びゲットーの外に解放されることはなかった。ゲットー外での労働例えば土木工事などに使用されるため一時的にドイツ人監視のもと集団でゲットーの外に出されることはあった。しかしそれ以外の形でゲットーの外に出されるということは、殺されるということであった。ゲットーの住民は何班かに分かれて、ガス室またはガス・トラックを備えた絶滅収容所に向けて、鉄道貨車やトラックでゲットー外に運び出された。最初はドイツにとって何の役にも立っていないとされた大人とその家族。大人(父親、母親)と子どもが一緒に運び出された。次に、ドイツにとって労働者として役に立っていた大人とその家族。これは大概、母親と子どもが先。役に立っていた者である父親があと。次にゲットー管理事務所に勤務していた者とその家族。最後に、ドイツ人からゲットーの管理を託されていた者とその家族。これで全員いなくなる。ゲットーから住民を外に連れ出して殺し、ゲットーを空にする、ドイツ人はこれを、ゲットーの「解体」と呼んだ。 

 

 

ゲットーには、労働ゲットーと通称されるものもあった。大人から年長の子どもまで、多くの者がドイツ軍の使用する単純製品の製造などに携わっていた。全員が働いていたわけではなかった。働いている者の妻や年少の子どもそれに老人は働いていなかった。ドイツ人はこのような労働ゲットーも、自分たちがその地を撤退する時までに「解体」した。ガスで殺されるために連れ出された一番目は、働いていない大人と年少の子ども、次に、働いている年長の子ども、最後に、働いている大人。 

 

 

こうして、ドイツ人は、ポーランドにおいて、自らの支配下に入ったユダヤ人のほとんどすべてを都市のゲットーに押し込め、のちにそのほとんどすべてを殺してしまったすべてのゲットーは解体され、ドイツが必要とした労働者のみが労働収容所に移された。ドイツ人はこれら収容所の労働者も撤退時に殺して去った。繰り返しになるが、ポーランドで生き延びた者は、収容所で働かされているうちにソ連軍が近づいて来て、ドイツ人が収容所のユダヤ人を殺す間もなく逃げだしたため死を免れた者や、森に隠れ住んでいた者など、わずかの数にとどまった。子どもは100パーセント殺されたって言ってよい。

 

 

 

ここで、大きな疑問が2つ現れる。ドイツ人はなぜポーランド・ユダヤ人をゲットーに入れたのか。なぜゲットーの入れたユダヤ人を殺してしまったのか。 

 

一つ目の疑問。ドイツ人はなぜポーランド・ユダヤ人をゲットーに入れたのか。 

 

ハイドリヒは、ポーランドのユダヤ人は、ユダヤ人特別居住区にすべて移動させられることになるが、それには少し時間がかかるので、その間「よりよく管理するためと将来の移送のため」都市のゲットーに集中する、と言った。そして田舎にいるユダヤ人を都市へと移動させ、都市にはゲットーを設けた。1941年末までにはポーランドのユダヤ人のほとんどは都市のゲットーに収容された。ハイドリヒの発言によれば、ユダヤ人をゲットーに集中する目的には、二つあった。一つは、よりよく管理するため。いま一つは、将来の移送のため、である。将来の移送のため、とは、将来移送するとなった時、ユダヤ人がまとめてあれば、短時間で効率的に移送することができる、という意味である。ゲットーは、ユダヤ人をユダヤ人居住区に移送するまでの、暫定的な施設のはずであった。ポーランドの行政に携わるドイツ人官僚もそう思っていた。

 

 

 

もう1つの、よりよく管理するため、とは何か。ドイツが占領したポーランド全土にユダヤ人があふれていた。大都市にはユダヤ人大集団が、中小都市には中小集団が、田舎にはユダヤ人集落が存在していた。ポーランドのユダヤ人はドイツ、チェコ、ハンガリーなどのユダヤ人と異なり、中産階級や知識人はわずかで、多くは労働者であったが、数は200万に上り、ポーランド人口の約1割を占めていた。ポーランドのユダヤ人はポーランド人の下位に甘んじ、控えめな態度で生きていた。しかし彼らは、都市においても田舎においても行動を制約されていなかった。ドイツ人に言わせれば、「自由に動き回っていた」。ナチにとってこれは決して放置できない状況であった。彼らは管理されなければならなかった。ドイツ人の目と手の届く場所に、まとめられ、囲われていなければならなかった。田舎に散開するユダヤ人は都市に移動させ、都市においてはゲットーにまとめ、囲い込まれなければならなかった。これが、ハイドリヒの言う、「よりよく管理するため」都市のゲットーに集中する、の意味する内容である。

 

 

 

ヒトラーは、ポーランドの聖職者、貴族、知識階級およびユダヤ人をドイツ支配に対する抵抗要素と位置付けていた。聖職者、貴族、知識階級はドイツ支配に対するポーランド国民の抵抗運動の組織者・指導者とみなされた。ポーランドのユダヤ人は基本的に共産主義ソ連に友好的でドイツに敵対的とみなされていた。この認識は、確信の度合いに差こそあれ、ヒトラー、親衛隊、国防軍に共通していた。そのような存在が200万もいるのだから、そのまま自由にさせておけるわけがない。だから都市のゲットーに集め、囲い込んだ。ちなみに実際のところ、ポーランドのユダヤ人の大部分はノンポリであった。共産主義に共鳴し、親ソ連・反ドイツ的態度を有する者が相当数、特に若者の間にいたことは確かだが

 

 

 

ドイツ人は、ポーランドのユダヤ人を今までのように自由に動き回らせておくことを危険視し、都市のゲットーに囲い込んだ。

 

では、ゲットーに囲い込んだ結果、自由に行動できなくなった彼らをなぜ皆殺しにしたのか。

 

 

 

ドイツ人は、将来ユダヤ人をどこかの地に集団移送するまでの間、ユダヤ人をよりよく管理するため都市のゲットーに集めた。ユダヤ人をゲットーに収容することはいわば暫定的な措置だった。集団移送する先としてポーランド総督府の東端やマダガスカル島がその候補地に挙げられた。しかしいずれも実現に到らなかった。ゲットーへの収容期間が予定していたより長くなった。ここに二つの難題が発生することになった。食糧供給と疫病の問題だ。 

 

 

ドイツ人は、ゲットーの運営をユダヤ人自身にやらせるため、ユダヤ人評議会というものをつくり、ユダヤ人長老の一人をその議長に指名した。議長はゲットー運営の実務を任されたが、ゲットー運営の基本方針は当然ドイツ人が決定していた。ユダヤ人評議会はゲットー運営に関するドイツ側の意思を実行する機関だった。

 

 

ドイツ人はゲットー住民が必要とする食糧は、ゲットーが所有する金で買わせることにしていた。ゲットーが所有する金とは、ユダヤ人評議会がゲットー住民の持ち金を原資に保有する金のことだ。さて、評議会がドイツ側に対し一定額の食糧を発注し、その金額に相当する量の食糧がゲットーの外からゲットーの荷受け所に届けられる。それを評議会が住民に配分する。評議会に対し拠出した金額の多少で受け取る食糧の量が変わる。評議会に多額の資金を提供した裕福な者には多く届けられ、そうでない貧しい者には少ししか配られなかった。孤児や貧しい親を持つ子供たちが先に餓死していった道理だ。ワルシャワ・ゲットーには闇の食糧が流通しており、金持ちとその家族の血色はそれほど悪くなかったという。ゲットーに入る食糧の上限はドイツ人が決定した。ゲットー側に金があり、多くの量の食糧を注文しても、ドイツ人の設定した枠を超えて受け取ることはできなかった。反面、ゲットーの購入資金が乏しくなれば、その分ゲットーに入ってくる食糧も少なくなった。ゲットーの資金が枯渇し、一時的に食糧が全く入ってこなくなったこともあったという。

 

ゲットーの食糧不足が深刻になり、餓死する者が増えつつあるとき、ゲットーを管轄するドイツ当局は悩んだ。ゲットー住民のためでなく、ドイツのために。これから先のゲットー運営方針めぐって、ポーランド各地でゲットー管轄当局(ドイツ人がやっている)の会合が開かれた。大別して以下のような意見が出た。

 

  1. ゲットー住民の餓死を回避するため、ドイツ側の負担で一定量の食糧援助をすべきである。(すでに、例外的にそのような恩恵を被っているゲットーもないわけではなかった)

  2. ゲットーに工場をつくり、その生産品と交換に食糧を供給すべきである。(すでに、そうしているゲットーがないわけではなかった。しかしこれから新たにやるとしたら、工場をだれの資金でつくるのか。ゲットーに負担させるとしても、ゲットーにその金はあるのか。ドイツ側の資金でつくるとしたら本国がはたして許可するのか、などという問題があった)

  3. われわれドイツ人はポーランドからユダヤ人がいなくなることを望んでいるのであるから、餓死という形でも結果的にユダヤ人がいなくなればそれでよいのではないか。ゲットーに食糧購入資金が尽きたら、食料供給を停止すればよい。(出席者の中にこの趣旨の発言をする者がいないではなかった。そのことを記した議事録が残っている)

  4. ゲットーからの外出を許可して、ゲットー住民にゲットー外で職を得させ、自活の道をつくらせる。外出はあくまで仕事のためであり、居住はもちろんゲットーである。(これは、現地当局者の判断でできることではなかった。ポーランドのユダヤ人をゲットーから出さないのがドイツ本国の既定方針であったから。しかし現地ドイツ人官僚には、ユダヤ人をゲットーから外出させられない大きな理由がこれ以外にあった。疫病の問題である。これについては後で述べる)。

 

結論を書く。

 

  1. 食糧援助については、ドイツ帝国に編入された地域にあるウッチ・ゲットーに対してのみこれをやった。このゲットーはドイツのための労働ゲットーと位置付けられたからだ。総督府において、総督フランクは例外的にワルシャワ・ゲットーに対してのみやろうとした。総督府のそれ以外のゲットーにたいしては上記の3.であった。   しかしワルシャワ・ゲットーに対する食糧援助計画もソ連との開戦により消え失せた。

  2. 工場をつくり生産品と食糧を交換する案については、すでに労働ゲットーと位置付けられたウッチ・ゲットーが、ゲットーのユダヤ人評議会の資金で工場をつくり、これをやっていた。ワルシャワ・ゲットーにおいてもこれより先、ドイツ民間企業の資金でいくつかの工場がつくられた。

  3. ゲットーの食糧購入資金が尽きたら食糧供給を停止し餓死させる案ついては、一部その通りになった。しかし実際は、ポーランドのゲットーでは、食糧供給停止により餓死する前に、住民のほぼ全員が別の死に方をした。つまりガス室に送られた。ヒトラーはポーランドのユダヤ人が餓死するのを待たなかった 

 

 

いま1つの問題は疫病の問題であった。この問題は、50万近いユダヤ人人口を抱えるワルシャワ・ゲットーにおいて顕著であった。このゲットーで、1940年春ごろから発疹チフスが大流行しだし、1941年には手に負えない勢いになった。ゲットーを管轄するドイツ当局は悩んだ。ゲットー住民のためでなく、ドイツのために。ドイツ人は、食べるものの何もないゲットーから脱出しようとする住民が出てくることを懸念した。封鎖されたゲットーであっても、脱走を完全に防ぐことはできないことも正しく認識していた。ドイツ人は、脱走した者の中にチフスの感染者がいて、それがポーランド人に伝染し、ポーランド社会にチフスが流行することを懸念した。ポーランドにいるドイツ人に伝染することを当然恐れた。ポーランドには、ポーランド経営のため本国から派遣された行政官僚、親衛隊員、軍関係者など多くのドイツ人がいた。それらがチフスに感染することなどあってはならなかった。ポーランドはドイツからソ連前線に赴くドイツ軍部隊が集合する地でもあった。また、この先ソ連軍が反攻しドイツに攻め上ろうとするようなことが万一あった場合、この地にドイツの大規模な防衛部隊が集結することになる。ポーランドが、ドイツ軍兵士にとってチフスの蔓延する危険な土地になることがあってはならなかった。 

 

 

1941年当時ヒトラーがポーランドのゲットーが飢えと疫病の支配する世界になっているのを知っていたことに疑いはない。ただし、ヒトラーは、ユダヤ人が餓死することなどに心を動かされることはなかった。むしろ、当然受けるべき罰だと思っていた。ゲットーの疫病が外に持ち出されてポーランドの地に広がることことには十分な警戒心示したろう。しかし彼には、もう一つ、疫病の危険と同じくらい危惧することがあった。 

 

 

ヒトラーには食糧不足と疫病がもたらすゲットーの惨状を改善する気など一切なかった。ゲットーへの封じ込めを解くことは全くの論外であった。一方で、悲惨な境遇に長期間閉じこめられた者がときに暴発的行動に出ることも知っていた。絶望の淵に追い込まれた者が自暴自棄の行動に走ることは珍しくない。ゲットーの住民がそうなることは十分ありうる。飢えに苦しみ疫病の危険にさらされた者が集結し、ゲットーからの脱出を企んで暴動を起こす。何しろワルシャワ・ゲットーの場合、50万近い人口がいるのだ。実力部隊の出動で鎮圧できることに疑いはないが、鎮圧に手間取ることもありうる。混乱に乗じてゲットーの壁を乗り越える者も少なからずいるだろう。その多くは若くて元気な男だ。脱出した者はポーランド各地に潜伏する。その一部が破壊活動者となる。ポーランドにいるドイツ人を攻撃する。ドイツにとって重要な施設、例えば鉄道、橋梁、軍需物資保管庫などを破壊しようとする。脱出した者の中に疫病の保菌者も混じっているだろう。

 

結論を言えば、ヒトラーは、ゲットーの過酷な状況の中で自暴自棄になったゲットー住民が反乱を起こしたり、ゲットーからの脱走者が破壊活動者となったり、脱走者の中に伝染病の保菌者が混じっていてポーランドの地に伝染病を広がることを恐れて、ゲットーをその住民もろとも消し去ることを決断したのだろう。 

 

 

ヒムラーはゲットーを解体する理由を何度か述べている。1942年7月、部下である総督府親衛隊トップあての書簡に、ポーランドからユダヤ人を除去する理由として、ポーランドの治安と清潔のためにそれが必要である、すなわち、それをやらなければ抵抗運動と伝染病が発生する危険がある、と書いている。さらに1943年1月、ポーランドのゲットーを解体するのは、治安上の理由からであり、ドイツにとって必要な労働力は、ゲットーにおいておくのでなく、強制収容所にまとめれば問題はない、とも発言している。1943年5月には、ポーランドからのユダヤ人除去は、この地域の根本的安定の前提である、と記している。

 

さらにこれはかなりあとのことだが、1944年に入りソ連軍が総督府東部に接近してきたとき、ヒムラーは国防軍将軍たちとの会合の場で、今でもポーランドに巨大ゲットーが残っていたら、ゲットーがドイツ軍の背後で反乱を起こすことになったであろう、そうなったら総督府東部の前線の維持に困難をきたすことになったであろう、と発言した。 

 

 

 

ソ連

 

1941年6月22日ドイツ軍がソ連に侵攻し、独ソ戦争が開始された。このときのソ連領には、1939年9月にドイツとソ連とがポーランドを分割する以前はポーランド領であった地域が含まれていた。ドイツがこの地域を占領したとき、ここに約100万のユダヤ人がおり、これがドイツの支配下に入った。ドイツはこのほぼ全員を殺した。バルト地域は1940年9月にソ連に併合されていた。バルト地域とベラルーシとウクライナのユダヤ人も徹底した殺戮の対象とされた。これらの地域において合わせて150万から200万人ほどのユダヤ人が殺され、バルト地域、ベラルーシおよび西ウクライナのユダヤ人は実質的に絶滅した。ドイツ人に捕捉される前にロシア方面に逃げ込んだ者、森に隠れていた者など、わずかの数が生き延びた。 

 

 

ソ連侵攻に当たりヒトラーは、ソ連にいるユダヤ人をドイツの占領支配に対する危険要素と明確に位置付けていた。ヒトラーのこの思想は開戦前に発令された国防軍指針に反映された。指針はユダヤ人を、ソ連共産党員、パルチザン、破壊工作者と並ぶ危険要素と規定し、仮借なき断固たる措置すなわち殺害の対象としていた。しかしここに言うユダヤ人は、他の危険要素がほとんどの場合成人男性であるのと同じく、成人男性のユダヤ人であった。この時点において、女性・子どもを含めたすべてのユダヤ人が殺害対象とされていたわけではない。とはいえ、成人の男性ユダヤ人でありさえすれば、戦場であるソ連においては、共産党員、パルチザン、破壊工作者と同列の危険分子であり、拘束さらには殺害の対象だった。

 

ヒトラーがソ連の成人男性ユダヤ人をドイツにとっての危険要素と位置付けた理由は、イデオロギーにもとづく部分が半分、実際上(軍事上)の部分が半分であった。前者はユダヤ人を本質的に親ソ連・反ドイツの存在と位置付けるイデオロギーから来るもので、ユダヤ人はその本質上ソ連側に立って活動し、ドイツの目的達成阻止を企む存在と定義する。後者は、ソ連のユダヤ人をソ連軍とパルチザンのために働く情報員と位置付けるもので、ユダヤ人は敵軍にドイツ軍の配置、規模などの情報を提供するとされる。 

 

 

ソ連におけるユダヤ人虐殺の大部分を実行したのは、親衛隊帝国指導者・ドイツ警察長官であるハインリッヒ・ヒムラー率いる親衛隊・警察である。具体的には、親衛隊保安警察所属の特務部隊(アインザッツグルッペ、と名付けられていた)および親衛隊・警察上級指導者指揮下の武装親衛隊(武装SS)と警察部隊である。

 

親衛隊・特務部隊は、作戦行動をする軍の後ろについて移動し、占領した地域の治安平定を武力をもって迅速に達成することを任務とし、ソ連侵攻に当っては4個部隊が編成された。隊員の出身母体は保安警察、武装親衛隊、普通警察などであった。その任務の具体的な内容として、占領地域における危険分子の拘禁、ドイツに敵対的な企ての探索と検挙などが挙げられており、任務の遂行のために執行措置(殺すこと)を施す権限を与えられていた。特務部隊全体で約3,000名の隊員がおり、1941年7月下旬にはヒムラーの命令により、普通警察から5,500名が追加補充された。 

 

 

国防軍は開戦直後の順調な進撃を果たしている間は、親衛隊によるユダヤ人殺戮にあまり関心を示さなかった。しかし、しばらくして前進が停滞しはじめ、パルチザンの活動があちこちで発見されるようになると、親衛隊・警察部隊に対し、パルチザンおよびユダヤ人を対象とした掃討作戦を熱心に要請するようになった。国防軍自体も掃討作戦を行った。多くは親衛隊と連携したが、独自に行うこともあった。

 

 

 

開戦当初、順調に前進する軍の後ろについて移動する親衛隊・特務部隊は、大きな町に入ると、限られた滞在時間において、与えられた任務を果たそうとした。危険分子の拘束と断固たる措置だ。しかし周囲に目を凝らしても、任務の対象となる政治的危険分子が見あたらない。共産党員や対ドイツ抵抗分子などのほとんどはとっくに逃げ去っている。油断した下級共産党員がわずかな数残っていたりする。これらはただちに拘束し執行措置を施す、つまり殺してしまう。しかしわずかな数の下級共産党員や危険分子らしき者を拘束・殺害しただけでは任務を十分に果たしたとは感じられない。上司に提出する活動報告に、わが部隊の今週の任務遂行状況、共産党員および危険分子の疑いのある者計5名に対し執行措置を施す、などとは書けない。もっと数が要る。そこでもう一度あたりを見渡すと、無数のユダヤ人が不安な表情ながらも、逃げることまではせず、自分たちドイツ人を見つめている。無理もない。このとき、自分たちが危険分子として断固たる措置の対象になっていることなど知らなかったのだから。特務部隊は、これ幸い、とユダヤ人を対象に任務の遂行にとりかかる。まずその町のユダヤ人社会で指導的立場にある者やインテリユダヤ人を殺す。これだけでは数が足りないので、普通の成人男性ユダヤ人を何百人か殺す。数週間で数千人(筆者より、アバウトな表現を勘弁してほしい、イメージとしてわかっていただけたらよいのだ。事実とかけ離れているわけではない。)の男性ユダヤ人が殺された町もいくつかあった。少数の若い女性が含まれていることもあった。ただしまだ女性一般と子どもは殺されていない。そうこうしているうちに、軍の前進が再開されるので、軍の後をついて行くことになっている特務部隊も町を出る。殺されなかったユダヤ人が町に残される。さて軍とともに移動する特務部隊は再びある町に入って、少しばかりの期間そこに滞在することになる。すると前の町でやったと同じことをこの町でもやるのである。移動し、一時とどまり、殺し、去る、これを繰り返してゆく。そのうち軍の前進が長期にわたり停滞するようになると、特務部隊の一つの町における滞在期間も長くなる。こうなるとユダヤ人の悲劇は増す。特務部隊の滞在期間が長ければ長いほど、殺されるユダヤ人の数が多くなる。ある町では、その町の男性ユダヤ人の大部分を収容施設に囲い込んで、グルーブ単位で順番をつけて森に連れ出し射殺していった。いくつかの町では男性ユダヤ人に混じって少数の女性ユダヤ人が殺された。しかし、開戦から40日ほどの期間においてはまだ無差別集団殺害は行われていなかった。

 

 

 

なぜ、親衛隊・特務部隊は、普通の感覚では、ドイツ軍にとって危険と思えないユダヤ人男性を殺し続けたのであろうか。ヒムラーがそれをよしとしたからである。ヒムラーはなぜそれをよしとしたのであろうか。ヒトラーがそれをよしとしたからである。繰り返しになるが、ヒトラーにとって、戦地であるソ連に存在する成人男性ユダヤ人は、成人男性ユダヤ人であることだけですでに危険な存在であったのだ。ヒトラーのこの思想は、ユダヤ人を、ソ連共産党員、パルチザン、破壊工作者と並ぶ危険要素と規定し、仮借なき断固たる措置すなわち殺害の対象とする、国防軍指針に反映されていた。当然ヒトラーのこの思想は親衛隊にとっても行動指針であった。だからヒムラーは、親衛隊・特務部隊がユダヤ人以外の危険要素をほとんど捕捉・殺害することなく(実際には、できなかったのだが)、ただひとえにユダヤ人男性のみを殺していることをよしとした。すなわち特務部隊は仕事をしているとした。特務部隊は容易に任務を遂行できる道を与えられ、男性ユダヤ人殺しを続けることなった。 

 

 

元に戻る。

 

親衛隊は、開戦前と開戦直後において、成人男性ユダヤ人を作戦行動の対象としていた。この時期、彼らが作戦行動の対象としてユダヤ人というとき、それは成人男性のユダヤ人を指していた。若く活動的な女性ユダヤ人も少数ではあるが対象とした。しかしこの時期、女性一般と子どもについては作戦行動の対象ではなかった。 

 

 

開戦後一ヵ月ほどの間、親衛隊・警察の部隊は成人男性ユダヤ人を殺していった。この頃からいよいよパルチザンが問題になり始めた。前述のように、親衛隊も国防軍も開戦前から、パルチザンの出現を予想していた。パルチザンとは正規軍の指揮下にある非正規武装組織のことであり、遊撃隊として戦闘したり、敵施設などに対する破壊活動などを行う。7月半ば過ぎからパルチザン対策がドイツにとって現実の課題となった。

 

ソ連側の動きとして、7月1日までには、ドイツ軍の背後においてパルチザン部隊を組織すべしとの軍命令が発せられていた。7月3日、スターリンが開戦以来はじめて国民向けにラジオ演説を行い、パルチザン部隊と破壊活動組織の結成と活動開始を呼びかけた。これらの使命として、橋、道路の爆破、電気通信網の遮断、敵の倉庫や貯蔵所の放火などを挙げていた。ソ連側のこの動きに対応するためヒトラーは7月17日、軍後方地域(ドイツ占領地)の治安確立をヒムラーの任務とした。

 

7月25日には、陸軍総司令部特務大将であるオイゲン・ミュラー将軍が、北方、中央、南方の各軍集団後方地域司令官に対し、ソ連指導部は今ドイツ軍の後方で全面的なパルチザン戦を始めた、と警告した。

 

開戦後一か月程経過して、小規模で数は少ないが、実際にパルチザン活動が開始されたことをドイツ側は認識した。ヒトラーは、今後敵はドイツ軍後方でのパルチザン活動を本格的に組織すると確信し、軍後方の平定に全力を傾けることにした。 

 

 

7月17日にヒトラーより軍後方地域の治安確立の任務を与えられたヒムラーは早速体制作りに着手した。軍後方地域とは、前線で戦闘する軍の後方にある占領地のことだ。

 

ヒムラーは、まず親衛隊・警察上級指導者隷下の部隊の増強を始めた。親衛隊・警察上級指導者とは地域におけるヒムラーの代理人であり、その地域の親衛隊・警察の活動を指揮総括する大物だ。これから少し細かい話になるが、この後の事態の展開を理解する上で必要なことなので辛抱してほしい。ヒムラーは自身に直属する二個の武装親衛隊旅団をソ連駐在の二人の親衛隊・警察上級指導者にそれぞれ一個ずつ与えた。同時にヒムラーはこれら親衛隊・警察上級指導者に対し、合わせて11個の普通警察大隊を配属した。併せて親衛隊・特務部隊も大幅に増員した

 

親衛隊・警察上級指導者の指揮下に入れられた武装親衛隊旅団の任務は、同指揮下にある警察大隊と連携して、占領地における主要な問題地域を早急に平定することにあった。このとき占領地における主要な問題地域とは、ベラルーシ南部と西北ウクライナにまたがる広大なプリピャチ湿地帯のことだった。森林と湖沼からなる未開地帯だ。この地域にソ連軍残存部隊や敗走兵が潜んでおり、これがパルチザン化し、ドイツ軍兵士を襲撃したり、道路に地雷を埋設したりしていた。ソ連前線で戦う部隊への連絡・補給線がこの地域を通っており、経路を脅かすこれらパルチザンの掃討が喫緊の課題であった。

 

武装SS旅団は湿地帯とその南側に派遣された。これら旅団は豊富な人員を擁し、装備、機動力ともに親衛隊・特務部隊はるかに凌ぎ、迅速で大規模な掃討作戦に適していた。

 

7月28日、ヒムラーは湿地帯における旅団の任務に関し一つの命令を発した。曰く、ユダヤ人やロシア人はソ連の支援者であるため、湿地帯のユダヤ人村、ロシア人村はソ連軍敗走兵やパルチザンの拠点になるおそれがある。これらは抹消しなければならない。と。成人男性は殺し、女と子どもは移動させ、食糧は運び出し、村は焼き尽くせ、と。このやり方は対ゲリラ戦で一般的に使用される無人化作戦だ。対ゲリラ戦においては、ゲリラが活動する地域を無人化する。すなわち、ゲリラが活動する農村地帯からそこの住民全員を別の場所に移動させる。村人の中にいるゲリラは敵が村に来る前にすばやく逃げてしまうし、若い男は実際ゲリラでなくともそれと疑われるだけで殺されてしまうことを知っているから、これもそのほとんどが早々に村から逃げ出す。村に残っているのは女と子どもと老人だ。これらを全員移動させ、村を焼き払う。女と子どもさえそこにいてはならないのだ。そこに女と子どもがいるということは、そこに女と子どもが食べる食料があり、住居があるということだ。それをゲリラが利用するのだ。夜、闇に乗じて村にきて、腹を満たし、休息する。だから女、子どもを含む村人全員を移動させ、無人とし、村を焼き払う。近年のベトナム戦争において米軍がこれを大規模にやった。民族解放戦線が拠点としている村やそれに協力している村を無人化しようとした。米軍はトラックやヘリコプターで村の住民全員を都市近郊に設けた難民キャンプに運んだり、民族解放戦線が活動していない地域に設置した難民居留区に移動させたりした。 

 

 

元に戻り、あらためて7月28日のヒムラーの命令を見よう。湿地帯にあるユダヤ人村に関し、男は射殺し、女と子どもは連れ去り、村は焼き払え、とある。男は、連れ去るのでなく、射殺せよ、だ。

 

さて、7月31日ヒムラーの命令はヒートアップする。すなわち、すべての男性ユダヤ人を射殺せよ、女のユダヤは沼に追い込め。三日前の命令では、女と子どもは連れ去れ、とあったのが、ここでは、女は沼に追い込め、ということになった。現地部隊は当然この命令に従った。ある部隊は、女と子どもを沼に追い込んだが、浅すぎて成功しない(死なない、の意)ことが多かったと報告している。女は沼に追い込め、とは、女も殺せという意味であることを部隊は知っていた。命令は、子どもはこうしろと指示していなかった。子どもは生かしておけとの指示もなかった。そこで、女性と子どもと幼児を一緒に始末することにした。

 

 

武装親衛隊旅団のプリピャチ地域における掃討作戦の第一波は、8月中旬に終了した。殺された者の約90パーセントはユダヤ人であり、残りはソ連軍敗走兵、共産党員と推定された者などだった。

 

 

 

少しまとめてみる。開戦直後、前進する軍の後について行く親衛隊・特務部隊は、その過程において成人男性ユダヤ人を殺した。殺されたユダヤ人の中には少数ではあるが、若い女性も混じっていた。まだ、女性一般と子どもを含めた無差別殺戮は行っていなかった。8月初旬になり、ある地域においてユダヤ人集落の住民全員の殺害が始まった。それはパルチザンが出没するとされたプリピャチ湿地帯における掃討作戦においてであった。親衛隊・警察上級指導者指揮下の武装親衛隊と警察部隊が、いくつかの村において、女性と子どもを含むユダヤ人住民全員を殺害した。この全員殺害は親衛隊・警察の総帥であるヒムラーの命令を根拠にするものであった。これがソ連における計画的なユダヤ人社会の住民全員殺害の始まりであった。 

 

 

ほどなくして、事態はさらに進展した。

 

前線後方全域において、つまりドイツ占領地全域において、農村地帯からユダヤ人全体を排除する方針が軍と親衛隊とに共有されることになった。パルチザンが潜伏し活動するのは都市ではなく田舎であったからである。8月末までには、親衛隊・特務部隊、親衛隊・警察上級指導者指揮下の部隊(武装親衛隊と警察大隊)および軍の後方地域担当部隊が、標的とした地域からユダヤ人をいなくする作戦を開始した。9月下旬にこの三組織の指導者が「パルチザン戦争にかかる研修会」を開催した。かれらは、まずパルチザンとユダヤ人とが密接につながっていること、このさき軍と親衛隊の協力を一層強化する必要があるとの認識で一致した。あれこれの議論ののち、彼らは結論を出した。ある地域からユダヤ人を一掃する行動を行っているとき、その地のユダヤ人を直ちに皆殺しにできない場合は、ゲットーその他の封じ込め地区を創設し、そこに収容しなければならない・・・。彼らはこの結論を忠実に実行した。

 

田舎にいるユダヤ人で、ドイツ人に発見された者は、その場で射殺されるか、殺戮部隊が到着するまでその住所にとどめ置かれるか、町や都市に集中されゲットーに入れられるか、のいずれかだった。田舎でドイツ人に発見されながら長期間放置されているユダヤ人は基本的に存在しなかった。ただドイツ軍のために道路建設などの労働に使用される男性ユダヤ人はしばしの間生かされた。 

 

 

都市にいる膨大な数のユダヤ人はどうされたか。親衛隊・特務部隊は一方で殺戮しつつ、一方で7月半ば頃から精力的にゲットー化を推進した。大都市のほとんどすべてと中小都市の多くで、これらの部隊はユダヤ人住民を封鎖された地区に押し込めた。田舎にいたユダヤ人でその場で殺されなかった者たちも町のゲットーに集められた。ソ連においてドイツ占領地にいるユダヤ人のほとんどは1942年末までに都市のゲットーに収容された。ソ連のユダヤ人にとってゲットーは殺されるまでの仮の宿であった。ドイツ人はゲットーのユダヤ人にゲットー内の工場でドイツ軍向けの単純製品をつくらせたり、ゲットー外でドイツ軍のために道路建設などの肉体労働をさせたりした。当然このような労働者として役に立つ者があとで殺され、役に立たない男と、女と子どもが先に殺された。ゲットーの外に連れ出して射殺するのが多かったが、ガス・トラックに押し込んだり、ポーランドのガス室に送ったりもした。このようにして、バルト地域、ベラルーシ、西ウクライナのほぼ全域からユダヤ人がいなくなった。正確に言えば、ドイツ人の手の届かなかった小規模の集団や森に隠れていたなどの、わずかな数が生き残った。 

 

 

ここで、ソ連のユダヤ人を殺す、ナチなりの理由をまとめておこう。

 

 

まず、田舎のユダヤ人を殺す理由。

 

田舎つまり農村地帯のユダヤ人を抹殺する理由についてはすでに述べた。簡単にまとめると、田舎はパルチザンの活動する場所であり、そこにあるユダヤ人集落はパルチザンの拠点になる恐れが高いので、その集落を無人化する必要があった。無人化するには移動するのと殺してしまうのと、二つの法があるが、ドイツ人は殺してしまう方を選択した。当初は標的にした地域にあるユダヤ人集落の住民全員を抹殺するにとどまったが、しばらくしてドイツ占領地全域において農村地帯からユダヤ人をいなくする行動に移行した。数が多くて殺し切れない場合は、都市に移動させた。

 

ユダヤ人集落がパルチザンの拠点になるという理由のほかに、ナチによれば、田舎のユダヤ人は敵の情報員でもあった。ソ連軍やパルチザンにドイツ軍部隊の配置、規模などの情報を提供するとされていた。ヒトラーは側近に対し、「(ソ連の)ユダヤ人はゲリラの情報部であるから、殲滅しなければならない」と発言している。国防軍上層部にもソ連のユダヤ人をこれに似た理由で危険視する者がいた。1941年秋、ウクライナに展開する第11軍司令官マンシュタイン大将は、部下に対し、ユダヤ人は敵軍の情報連絡員であり、苛烈な措置の対象であることを理解すべし、との訓令を下した。 

 

 

次に、都市のユダヤ人を殺す理由。

 

ドイツ人は都市のユダヤ人をゲットーに入れたのだが、これをみんな殺してしまうことになる。ナチからすれば、町のユダヤ人をゲットーに封じこめず、自由のままに放置しておくことは極めて危険であった。町から出て、森のパルチザン組織に合流する危険性が高いからだ。だからゲットーに閉じこめた。ゲットーに閉じこめたが、そこの住民を意味もなく生かしておく気はドイツ人にはなかった。労働者として役に立たない男性と、女性と子どもは無条件に殺された。労働者として役に立つ男はしばしの間生かされたが、徐々に数を減らされていき、ドイツ軍の撤退時には残っていた者も全員殺された。

 

ヒトラーは1941年11月末までには、ヨーロッパからユダヤ人をいなくするための行動を開始することを決断していた。このヨーロッパにはヨーロッパ・ロシアと呼ばれるウラル山脈以西のソ連域も含まれていた。1941年11月末以降にソ連で行われた無差別大量ユダヤ人殺害は、そういう大方針を背景に持つものでもあるのだ。 

 

 

第二次大戦時に、ソ連においてパルチザンとして活動した者の数は50万人程度とされる。そのうちユダヤ人は3万人ほどであった。ユダヤ人パルチザンが親衛隊ユダヤ人狩り部隊に捕捉されることは皆無に近かった。部隊は、戦争にまったく関係しない、ただそこに暮らしているだけのユダヤ人をひたすら殺し続けた。 

 

 

ここでいくつか付記する。 

 

1941年7月17日、ヒトラーは軍後方地域(前線の後方にあるドイツ占領地)の治安確立をヒムラーの任務とした。7月19日、ヒトラーはヒムラーと話し合いを持った。同日、ヒムラーは自らに直属する武装親衛隊旅団をソ連駐在の親衛隊・警察上級指導者の指揮下に異動させている。7月27日、この上級指導者はヒムラーから出動命令を受け、この旅団を率いてパルチザンが出没する湿地帯におけるユダヤ人掃討作戦に着手した。武装親衛隊を動員したユダヤ人大規模殺害作戦は初めからヒトラーとヒムラー両者の合作だったと推測される。

 

1941年8月1日、ゲシュタポ長官ミュラーは、4人の親衛隊・特務部隊隊長に向けて電信を発し、総統に対しソ連における特務部隊の行動について定期的に報告しなければならないので、興味をそそる写真等の資料を速やかに送付するよう指示した。ヒトラーがドイツ占領地における抵抗要素掃討作戦について強い関心を抱いていたことが分かる。 

 

 

ドイツ人はソ連の地で150万を超える数のユダヤ人を殺したが、その大部分は射殺であった。一例を挙げると、都市のユダヤ人を田舎に連れ出し、野原の一角に一団としてしゃがませておく。そこから一キロほど離れたところにユダヤ人の男(彼らも穴を掘ったあと殺されるのだ)に命じて長くて深い穴を掘らせておく。しゃがませてあった場所から、一グループ何百人かの単位で穴に向かって出発させる。穴に着いたら穴の淵に穴の方を向かせて犠牲者を並べ、背後から銃で撃って穴の中に落とす。これを何回か繰り返すと穴は幾層にも重なった死体で一杯になる。そしたら土をかぶせる。小さな子どもや赤子は撃たれた母親に抱かれ生きたまま穴の底に落ちていったという。しゃがませてある場所と穴とは1キロ程度しか離れていないのだから、銃声はしゃがんでいる者たちに耳に届いた。それが何を意味しているか気がつかないはずはない。ドイツ人は、射殺する数が膨大なためドイツ人隊員の手だけでは足りないとして、現地のリトアニア人やウクライナ人を助手(つまり殺し手)として大いに利用した。というより、ダーティーな仕事はできるだけ現地協力者にやらせ、自分たちはそれらを監督する立場にあろうとした。現地協力者はドイツ人から報酬として金銭、食料、アルコール類などをもらっていた。

 

ウクライナのキエフ近郊では狭い区域に膨大な数の死体を埋めたため、しばらくすると死体が腐敗ガスにより膨張し、埋めた場所全体が巨大な丘のように盛り上がったという。

 

一つの穴にできるだけ多くの死体を入れるためにドイツ人は工夫した。穴の底に生きたユダヤ人を頭を同じ向きにしてうつぶせに寝かせ、そのうなじを銃で撃ち、これを死体の一層目とする。二層目は死んでいる者の上に生きている者を今度は反対向きに、つまり死んでいる者の足の上に生きている者の顔がかぶさる形で、これもうつぶせに寝かし、うなじを撃つ。これを繰り返すと穴は整然と並んだ幾層かのうつぶせの死体で一杯になる。これに泥をかぶせる。小魚の缶詰にヒントを得たという。ドイツ人は監督するだけで、実際にうなじを撃つ作業は現地協力者であるリトアニア人やウクライナ人にやらせたのであろう。穴は、これから犠牲者になるユダヤ人につくらせた。犠牲者は穴の内側の壁につくられた土の階段を降りていった。 

 

 

ロシアでも、ベラルーシでも、ウクライナでも、ユダヤ人は少数派であり、圧倒的多数はロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人であった。ナチにとってユダヤ人は虫けらであり、ロシア人その他は未開人であった。軽蔑すべき未開人ではあったが、その地にあって巨大な人口集団であった。ドイツ人は、これらの巨大人口がソ連軍に親しみドイツ軍に敵対する集団になることのないよう気を使った。ドイツに反抗する者あるいはその疑いの濃い者には公開処刑という厳しい処置を下したが、おとなしくしている者はそのままにしておいた。ソ連軍やパルチザンに協力しているとドイツ人がみなした集落に対しては、住民の大量殺害を行ったことも少なくなかったらしいが。

 

占領者たるドイツ人に反感を持つ者が増えないよう工夫することもあった。このことはユダヤ人の殺し方の変化にも見出せる。はじめは、ユダヤ人でない住民に見られることを特に気にすることなく、ユダヤ人を集団殺害した。反対に、ドイツ人に疑いをかけられたら、こんな風にやられることになるから、おとなしくしていろよ、という恫喝の意味を込めて、故意に見せつけることもあったらしい。そのようなことを続けているうちに、住民はユダヤ人のつぎは俺たちの番ではないか、と心配しだし、ドイツ人に対し、おそれたり、斜め見するようになった。ドイツ人は、これはまずい、このままではこれらはソ連軍の方に行ってしまう、と考えた。そこで、ユダヤ人集団殺害はユダヤ人でない住民の目に触れないよう、森の中などでやることにした。 

 

 

いま一つ、ナチがソ連でユダヤ人とそうでない住民とで扱いに差をつけていた話。パルチザンの拠点になっていると見られる農村地帯がベラルーシ西部にあった。ここの住民4万人はユダヤ人でなくベラルーシ人であったが、ドイツ人はこの一帯を無人化しようとした。ただし彼らはユダヤ人でなかったので、殺さずに近くの町の一角に移動させることにした。そこはユダヤ人ゲットーであったが、そこのユダヤ人は近い将来全員殺され、ゲットーは空になることになっていた。しかし移動させるベラルーシ人全員を収容するには現存の建物では不足するので、足らない2万人分として新しくバラックを建てることにした。 

 

 

フランス、ベルギー、オランダ

 

1941年秋、ドイツが占領しているフランス、ベルギー、オランダなど西ヨーロッパ諸国にいるユダヤ人は、すでにその地の対ドイツ抵抗組織の一部として抵抗活動を行っていた。さらに、もし将来連合国軍のヨーロッパ大陸上陸があるとしたら、これらの地の海岸は最有力の上陸地点候補であった。ナチの思想において、その地のユダヤ人はかならず連合国軍の協力者となる。草の根情報員として、ドイツ軍の配置、規模などを連合軍に通報する。情報提供にとどまらず、ドイツ軍兵士や施設を攻撃とする者も出てくる。さらにその地の国民に対して対独非協力と抵抗を扇動する。これらの地のユダヤ人をそのままにしておくことはできなかった。 

 

 

フランスでは1941年春ごろからドイツの占領支配に対する抵抗運動が開始され、1942年半ばから活発になった。ドイツ兵に対する銃撃やドイツ軍施設に対する破壊活動などである。これらは主にフランス人左翼組織によりなされたが、ユダヤ人からなる組織も少なからず加わっていた。ナチにとっては、フランスのユダヤ人は、フランス人左翼主義者と同列の危険分子であった。 

 

 

ベルギーのユダヤ人の多くは雇用労働者であり、左翼主義者も多かった。ナチから見れば、これらは反ドイツ行動に走ることの多い危険分子であり、放置すべきでなかった。ベルギーはドーバー海峡に面する沿岸部を有し、ここに存在するユダヤ人は軍事上の危険であった。このように、ベルギーのユダヤ人はフランスのユダヤ人と同様の意味で危険であり、排除の対象となった。 

 

 

オランダのユダヤ人には裕福な自営業者も少なくなかったが、多くは雇用労働者であり、左翼主義者も多かった。オランダの左翼主義者は、ドイツ支配に対する反抗行動として、ストライキを行ったが、この運動員の中には多数のユダヤ人が含まれていた。

 

オランダにユダヤ人が存在してはならない根本的とも呼びうる理由があった。オランダはゲルマン地域であり、ナチはここをライヒ(ドイツ帝国)に準ずる国土にしたかった。当然そこにユダヤ人が存在してはならなかった。

 

以上のような理由で、フランス、オランダ、ベルギーからユダヤ人は消滅しなければならなかった。 

 

 

移送対象人数と実際に移送された数をまとめると、フランスでは33万人に対し7万6千人であり、在住者の2割強が東部に移送され、殺された。ベルギーについては、4万3千人に対し2万4千人、5割強が殺された。オランダは、16万人に対し10万7千人、7割近くが殺された。 

 

 

フランスにおいては、移送実績は目標に遠く及ばなかった。その大きな理由の一つは、フランスに派遣されたドイツ人警官の数の絶対的不足であった。移送の前段階として、ユダヤ人を拘束し集中する必要があるが、これをするためのドイツ人警官が少なすぎた。しかしてドイツはユダヤ人拘束・集中作業の多くをフランス政府具体的にはフランス警察の協力に頼らざるを得なかった。フランス人は占領者であるドイツからの要請を無視することもできなかったが、ドイツへの協力をほどほどの度合いにとどめようとした。ほどほどの協力を行っているうちに、1942年末になって地中海域で連合国軍の攻勢が始まった。さらに1943年9月にはイタリアが降伏した。これら事態の進展に、フランスの政治指導者はドイツの敗北を予感し、協力意思を一層低下させた。ドイツは、フランス人のわずかな協力の下、少数のドイツ人要員の手で、ユダヤ人を捕まえるしかなかった。フランスの国土が広大で隠れる場所に事欠かなかったことと、多くのフランス人がユダヤ人の潜伏に手を貸したこともフランスのユダヤ人には幸運であった。移送されなかったユダヤ人の多くは国内に隠れていた。スイスやスペインに脱出した者も数万人に上り、2万を超える子供がフランス人家庭にかくまわれていた。 

 

 

ドイツ人はこの三国から東方に運んだユダヤ人を全員殺すと決め、実際にそうするのだが、殺す前に、運んだ先(強制収容所)でその労働力を活用しようとした。そのため最初は16歳から40歳までの健康な男女を、三国合計で10万人ほど移送した。これらの者はしばらく殺されず、働かされた。最後には殺されてしまったが。

 

そのうち、この三国から労働に向く成人ユダヤ人だけを移送することはなくなり、新天地への移住という名目で家族一体で運ぶことになった。この三国からの移送先は大部分アウシュヴィッツであった。輸送は鉄道を用いたのだが、ドイツ人はきめ細かった。フランスから運び出すとき、人間屠殺場行きの列車であることをフランス人に察せられないよう、現地からドイツ国境までは客車に乗せるのだ。国境を越えてドイツに入ったら、家畜用貨車に乗り換えさせた。

 

西ヨーロッパからの列車は老若男女入り混じりでポーランドの収容所に到着することになるが、そこで例の選別があった。労働者として使える成人は、しばらく生かされ働かせられる。労働に適さない成人と老人全員と子ども全員は即ガス室行き。具体的には、貨車から降ろされた時点で、子どもと老人はその他と離され、ガス室へとトラックで運ばれる。のちには鉄道レールをガス室のすぐ近くまで延ばしたので、貨車から降りたら歩いてガス室に向かった。成人男女は労働適否判定官であるドイツ人医師の前に並ばされ、医師の手が右に傾いたら、しばらく生かされ働かされる者、左であったら、子どもと老人と同じく即ガス室行きであった。 

 

 

ドイツ人がフランス国籍を有しないユダヤ人の、大人だけを東部に運ぼうとしたとき、フランス当局が、親だけ運んで子供を置いて行かれては重荷になるので、子供も一緒に連れて行ってくれと、ドイツ側に申し入れたこともあった。ドイツ人はその申し入れを受け入れた。フランス人はフランス国籍を持つユダヤ人は守ろうとしたが、そうでないユダヤ人には比較的冷淡であった。 

 

 

 

イタリア

 

ヒトラーはイタリアからユダヤ人を排除したかった。イタリアはバルカン同様地中海方面からドイツ腹部への進入路にあり、将来連合国軍のヨーロッパ大陸上陸作戦が実施された時、上陸地点に選ばれる可能性があったからである。しかしイタリアからのユダヤ人の排除は全くの不完全に終わった。イタリアのユダヤ人はイタリア社会に融和しており、イタリアのエリート層はユダヤ人を過酷な運命に投げ入れることに反対した。ヒトラーはムッソリーニに対し、イタリアからのユダヤ人追い出しをくりかえし求めたが、ムッソリーニがイタリア国内の反対を無視してドイツの要請に応えることはなかった。ヒトラーもヨーロッパにおけるもっとも重要な同盟国の指導者の意思を軽視しなかった。事態は1943年夏変化した。軍部がクーデターを起こし、反ドイツ政府を樹立し、連合国に降伏したのだ。ドイツはこれに迅速に対応し、9月にはイタリア全土を占領し、傀儡政府をつくった。この時イタリアにはおよそ4万人のユダヤ人が存在していた。これによりイタリア・ユダヤ人のアウシュヴィッツへの移送がようやく開始された。傀儡政府はドイツ人に対するリップサーヴィスとして、イタリア・ユダヤ人全員の移送を目標に掲げたが、実際に移送され殺されたのは8,000人程度にとどまった。

 

 

 

バルカン

 

ギリシアとセルビアにおいては、ドイツ軍による占領後も、両国民による対ドイツ抵抗運動が展開された。その活動の少なからぬ部分がソ連やイギリスから支援を受けていた。これらの地はドイツ人にとって依然戦場であった。ナチの思想において、これらの地にいるユダヤ人は自ら抵抗活動に加わるか、そうでなかったら抵抗活動を支援する者であった。ソ連におけるユダヤ人の位置づけに似ていた。加えてギリシアは、将来連合国軍のヨーロッパ大陸上陸作戦が実施された時、その上陸地点に選ばれる可能性があった。したがってこれらの地にユダヤ人が存在してはならなかった。ギリシアのユダヤ人7万人うち6万人が殺された。その大部分はアウシュヴィッツでのガス殺である。セルビアのユダヤ人1万人のほとんどは現地で殺された。殺人ガス・トラックは主にポーランドとソ連域において使用されたが、セルビアのユダヤ人女性と子どもの殺害にも使われた。

 

クロアチアは1941年4月にドイツの後援により建国された。この国の暴力主義的・排他主義的政府は成立後ただちに、ドイツからの圧力を受けるまでもなく、ユダヤ人排除作戦を開始した。大部分は現地で殺され、一部がアウシュヴィッツに送られた。クロアチアのユダヤ人4万人の8割が殺された。 

 

 

ドイツ人官僚の言葉によれば、セルビアとクロアチアの「ユダヤ人問題は解決された」。ヨーロッパ・ユダヤ人が蒙った苦難を最もよく知る大学者は、セルビアとギリシアのユダヤ人は「絶滅」された、と書いた。 

 

 

 

ルーマニア、ブルガリア

 

この両国の政府の対ユダヤ人行動には似たところがある。殺した数は比較できないほどにルーマニア人の方が多いが。両国とも枢軸国であり、今回の戦争でドイツに与した。ルーマニアはソ連戦線に自国軍を派兵している。両国はドイツに与したことにより、それぞれ新たに支配地を得た。ルーマニアはベッサラビアとブコヴィナ、ブルガリアはトラキアとマケドニアである。これらの新支配地に住んでいたユダヤ人に関し、ルーマニア人は自らの手で殺害することをためらわなかったし、ブルガリア人はドイツ人に引き渡すことに躊躇しなかった。しかしもとから自国の領土であった地域にいたユダヤ人については、両国政府はドイツの政策に協力することを渋った。ドイツはもとからの領土にいるユダヤ人をポーランド東部に移送することを要求していたが、移送は実施されなかった。1943年中盤になり、ソ連戦線やイタリアなどでドイツ・枢軸国軍劣勢の潮流が顕著になった。この戦争でのドイツの敗北を強く予感した両国の政治指導者達は、以後ドイツのユダヤ人政策への協力を停止することを決意した。負ける国に協力することの無意味さを知っていたし、戦争終結後連合国からドイツのユダヤ人政策に協力したことを糾弾されるのを恐れたのだ。結果として、ルーマニア人は新支配地にいた30万近いユダヤ人を殺し、旧来の領土にいたユダヤ人1万人ほどを殺した。旧来の領土におよそ30万のユダヤ人が生き残った。ブルガリア人は新支配地にいたユダヤ人約1万人をポーランド東部の絶滅収容所域の列車に乗せた。旧来の領土にいたユダヤ人約5万人は移送されることなく終戦を迎えた。 

 

 

ルーマニアは第二次大戦においてドイツの同盟国であり、開戦当初ドイツ軍とともにソ連と戦った。ルーマニアは1941年7月、かつて自国領であったがソ連に奪われていたベッサラビアを支配下に入れた。ルーマニア北東部に接するブコヴィナも支配することになった。ベッサラビアには20万近い数のユダヤ人が生活していた。このユダヤ人集団に対し、1941年7月、ルーマニア軍とドイツ親衛隊・特務部隊が射殺を開始した。次に収容所をつくりこれに押し込み、大量に餓死させた。最後には東方のトランスニストリア地域の収容所とゲットーに全員を追放することになった。ドイツ軍がトランスニストリアからソ連軍を追い出し、そこを支配していた。15万を超えるユダヤ人が行進を始めさせられたが、半数以上が飢えと渇きなどにより行進中に死んでいった。目的地に着いた者も、ルーマニア人とドイツ人の残忍で酷薄な扱いにより、そのほとんどが死に追いやられた。15万人近いブコヴィナのユダヤ人もトランスニストリアに移動させられることになったが、ベッサラビアのユダヤ人同様、目的地までの行進の過程および目的地の収容所でそのほとんどが死んでいった。ベッサラビアとトランスニストリアにおいて合わせて30万近いユダヤ人が死に追いやられた。ヨーロッパのユダヤ人の中で、最も虫けらのごとくみじめな殺されかたをされたのがこれら地域のユダヤ人と言えるだろう。ガス室の方がもっと残酷だと感じる向きもあろうが。反面、ルーマニア人はドイツとソ連の戦争が開始される以前からルーマニアの領土であった地域にいたユダヤ人には寛大であった。独ソ戦開始当初にモルダヴィアで1万人ちょっと殺しただけで、その他の地域のユダヤ人はほとんど殺されなかった。独ソ戦開始以前からルーマニアの領土であった地におよそ30万人のユダヤ人が生き残った。 

 

 

ハンガリー

 

第二次世界大戦当時、ハンガリーはドイツ側にあり、ハンガリー国軍はドイツ軍とともにソ連と戦った。当時ハンガリーには約75万のユダヤ人が暮らしていた。地方部に55万、ブダペスト市に20万であった。ハンガリーのユダヤ人はポーランドやソ連のそれと異なり下層民ではなかった。彼らの多くは中産階級であり、知的専門職と商業の分野において主要な役割を占めていた。高位の役人である者も少なくなかった。ナチが政権を獲得する前の、ドイツとオーストリア、それにチェコのユダヤ人の地位に似ていた。ハンガリーのユダヤ人も当然ヒトラーの絶滅計画の対象であった。ヒトラーはソ連の前線で戦うドイツ軍の背後に70万を超えるユダヤ人の大集団が存在することを大いに嫌った。ヒトラーにとって、ユダヤ人は親ソ連・反ドイツの存在であった。ハンガリーのユダヤ人はハンガリーを共産主義化し、ソ連の衛星国にしようとしていると、ヒトラーは考えていた。万一ソ連軍がドイツ軍を押し返し、ハンガリー国境に接近してくるような事態になったら、ハンガリーのユダヤ人はドイツに対して反乱を起こし、ドイツ軍の前線の維持に困難をもたらす危険があると彼は考えた。ポーランドのゲットーのユダヤ人がソ連前線にいるドイツ軍の背後で反乱を起こすことを恐れたのと似ている。ハンガリーのユダヤ人は、ポーランドにおけると異なり、ゲットーに入れられていなかった。1944年3月にヒトラーはハンガリーの摂政ホルティと会談したが、そのときヒトラーは言った。ハンガリーにおいては100万近いユダヤ人が何等の規制を受けることなく自由に暮らしているが、ドイツはこれらのユダヤ人をソ連とバルカンにおけるドイツの前線に対する脅威とみなさざるをえない、と。繰り返しになるが、ヒトラーを筆頭とする真正ナチの信念において、ユダヤ人は例外なく反ドイツ・親ソ連の存在であり、今そのための行動をせずにおとなしくしているのは、まだその時でないと考えているからであり、時機が到来したと感じるや必ず行動を起こすことになっている。だから今おとなしくしているハンガリーのユダヤ人も、ソ連軍がドイツ軍を押し返し、ハンガリーに接近するよう状況が生じたときには、時至れり、とばかりに、ドイツ軍前線の後方を混乱に陥れるための活動を開始することになっている。

 

もう一つ理由があった。ハンガリー政府は、ソ連におけるドイツ軍の戦いに陰りが生じると、ドイツを見限り、連合国側に寝返ることを模索した。ヒトラーはドイツ諜報機関の報告でこのことを知っていた。ヒトラーはハンガリーのユダヤ人がハンガリー政府や軍に対しドイツからの離脱そそのかしていると考えた。

 

1943年4月、ヒトラーはハンガリーの最高政治指導者であるホルティと会った。ホルティは自国のユダヤ人を死に追いやることをためらっていた。ヒトラーは、あんたたちが殺す必要はない、収容所に集めてドイツ側に引き渡してくれればよい、と答えた。ホルティがいつまでもぐずぐずしているので、ヒトラーは待ちきれず1944年春ハンガリーに親衛隊部隊を送り込み、ドイツ自身の手で、ユダヤ人をアウシュヴィッツに運んだ。2か月余りの間に、地方部にいるユダヤ人の大部分が移送され、そのほとんどが到着次第ガス室に送られ、一部の者が強制労働に使用された。

 

短期間のうちに、膨大な数の人間を殺し焼却するためにアウシュヴィッツの焼却炉はフル稼働した。それでも間に合わないので、巨大な穴を掘り野焼きにした。穴の底に鉄骨(古くなった鉄道レールを使用したという記録もある)を張り、いわば焼き網として、その上に死体を幾重かに重ねて焼くのだ。しばらくしてドイツ人はもっとも短時間で燃やしてしまう方法を発見するのだが、気持ち悪すぎるのでここに書かない。

 

さて、地方部からのユダヤ人輸送が終了し、1944年7月からブダペスト在住のユダヤ人のアウシュヴィッツへの輸送が開始されるはずであった。しかし、ソ連南方戦線でのソ連軍大反攻とドイツ軍敗走を知ったハンガリー政治指導層はドイツの敗北を強く予感し、ドイツのユダヤ人移送行動への協力意思を低下させた。さらに彼らは同国諜報機関からの情報により、アウシュヴィッツに送られた同国ユダヤ人の運命の実態を知るに及んだ。驚愕した彼らは、ドイツ側に対しこれ以上同国ユダヤ人を国外に輸送しないと通告した。ドイツ側は直ちに反応し、ホルティを脅迫しこの決定を撤回させ、首相をドイツに協力的な人物に交代させた。新首相はドイツの要請に応じて、ブダペストのユダヤ人約3万人をドイツ帝国での労働に服させるべく、徒歩にてドイツ方面に出立させた。鉄路がすでに破壊され列車での輸送が不可能であったからである。残ったブダペスト・ユダヤ人17万はゲットーに収容された。このときすでにドイツ側にこの巨大集団を他の場所に輸送する力は残っていなかった。ゲットー内で約2万人が死んだ。そうこうしているうちにソ連軍がブダペスト包囲を完成させ、ドイツ軍守備隊は降伏した。ブダペストのユダヤ人は約15万人が生き残った。 

 

 

独ソ戦開始当時、ハンガリーには約75万にユダヤ人がいた。このうち50万を超える数がドイツ人により死に至らしめられた。ほとんどはアウシュヴィッツのガス室での死であるが、ドイツによる強制労働の過程で死んだ者もかなりの数に上るものと思われる。生き残りの20数万の内訳は、ブダペストに15万、地方部に数万(これはハンガリー国軍により労働部隊と使用されていたものが大部分)、ドイツのための強制労働に使用されていて解放まで生き延びたのが数万というというところか。

 

 

短くまとめてみる。

 

ハンガリーのユダヤ人は、二つの意味で危険であった。一つは、ソ連とバルカンで戦うドイツ軍の背後に存在する新ソ連・反ドイツの巨大集団として。もう一つは、同国政府と軍に対し、ドイツからの離脱と連合国側への加入を扇動する存在として。ハンガリーからユダヤ人を排除する作業は1944年春まで持ち越された。ハンガリー政府指導者が自国のユダヤ人を救いなき運命に投げ入れることに躊躇し続けたからである。しかし最後にはドイツは強権を発動し自らの手によりアウシュヴィッツへのユダヤ人輸送を開始した。結果的に75万のハンガリー・ユダヤ人は、50万以上が殺され、ブダペストにおよそ15万、その他に約10万人が生き残った。

 

 

 

ハンガリーのユダヤ人55万人は戦争末期の1944年春から夏にかけて殺された。ヨーロッパの戦争におけるドイツの敗北が決定的になっていたこの時期にユダヤ人を殺すのは、ただ殺すことだけが目的だったとする見方がある。しかしこの時期ヒトラーは、いまだドイツの敗北を受け入れていなかった。ジェット戦闘機が近々ヨーロッパの空から英米の爆撃機を追い払うとか、ロケット兵器がイギリス国民の士気を破壊するとかの希望を抱いていた。連合国の分裂すなわち米英とソ連の決裂を期待し続けてもいた。事実1944年6月のこの時期、ジェット戦闘機は実戦投入直前だったし、VⅠロケットはロンドン爆撃を開始した。VⅡロケットも近く実戦配備が見込まれていた。ヒトラーにしてみれば、これら新兵器の投入により戦争の形勢が好転するまで、ソ連と対峙する東部戦線が崩壊することがあってはならなかった。それはドイツの東の防壁が崩れ落ちることであり、この戦争全体におけるドイツの敗北を意味するからだ。ヒトラーの考えでは、その戦線を保持するためには、戦線の背後の危険要素、つまり反ドイツ・親ソ連の巨大人口をまえもって排除する必要があった。ヒトラーは東部戦線保持のためハンガリーからユダヤ人集団を取り除こうとした。ヒトラーにとってハンガリー・ユダヤ人の抹殺は戦争遂行上の意味があったのだ。 

 

 

中立国

 

スペイン、ポルトガル、スイス、スウェーデンなどの中立国のユダヤ人もヨーロッパ・ユダヤ人絶滅計画の対象としてリストアップされた。しかしこれらの国に在住するユダヤ人の数はそもそも少なかった。一応リストアップするものの、戦時中に着手するということではなく,戦勝後の課題としたのである。したがってこれらの国のユダヤ人にナチの手は伸びなかった。 

 

イギリス

 

イギリスのユダヤ人33万人もヨーロッパ・ユダヤ人絶滅計画の対象とされた。イギリスについて、ヒトラーはソ連との戦争に勝利したのち何らかの措置を施すつもりであった。ソ連を獲得しヨーロッパの支配者となったドイツはイギリスをどう処置するのか。ヒトラーはイギリスを消滅させることも併合することも考えていなかった。北方人種の血を共有する、弟分の従順な国家として、兄貴分たるドイツに従ってくれたらそれでよかった。もちろんその国にユダヤ人を存在させる気はさらさらなかった。ドイツがもしヨーロッパの戦争に勝っていたら、イギリスのユダヤ人は、二度とヨーロッパに戻ってこられないよう、海を隔てた遠方かあるいはシベリアなどに追放されたことであろう。

 

 

デンマーク

 

デンマーク国民については美談がある。デンマークに住むユダヤ人は6千人余りであったが、デンマーク国民は占領者ドイツが自国のユダヤ人を死の収容所に移送することを容認しなかった。ドイツ人警察は収容所に移送するためユダヤ人を検挙しようとしたが、デンマーク市民はユダヤ人をかくまい、船に乗せ、中立国スウェーデンに逃がしてしまった。スウェーデンに到着した全員がスウェーデン政府の保護のもとドイツ敗戦まで生き延びた。

 

 

 

戦時中に一掃することを目標とした国・地域について、フランスとイタリアを除き目標をほぼ達成した。ドイツ帝国と保護領チェコ、ポーランド、およびソ連におけるドイツ占領地域については完全に達成したといってよい

 

 

 

ところで、ヒトラーがヨーロッパからユダヤ人を一掃しようと決心したのはいつなのか。 

 

 

1941年10月2日、ドイツ軍はモスクワ総攻撃を開始したが、ソ連軍の頑強な抵抗を受け防衛線を突破できなかった。そのうち雨と雪が降りだし、道路が泥濘化してドイツ軍の行動を阻んだため、道路が凍結するまで前進停止となった。11月15日モスクワ攻撃を再開したが、やはり防衛線を突破できない。

 

一方連合国側の動きとして、11月7日、ソ連革命記念日のこの日、アメリカ政府は武器貸与法をソ連に適用することを決定し、ソ連への軍事援助を本格化することになった。11月13日、アメリカ議会が中立法再修正案を通過させ、アメリカの物資輸送船とそれを護衛する米海軍護衛艦の行動範囲が、ヨーロッパ大陸のすぐ近くまで拡大された。

 

11月中旬になって、ソ連との戦いが長期化する見込みが濃くなった。アメリカがソ連への軍需物資援助を拡大すると同時に、ヨーロッパ大陸の戦争に実戦介入する動きを強めた。この状況に直面したヒトラーは、ソ連との戦いと、近い将来予想される米英連合軍との戦いに勝利するため、ヨーロッパ内部にいるドイツにとっての危険要素、つまり敵側に協力しドイツの行動を妨害せんとする分子、すなわちユダヤ人を、ヨーロッパから一掃することを決心し、そのための作業開始をヒムラーに指示した。 

 

 

1941年11月5日、ヒトラーは古くからの同志との語らいの場で、この戦争の終結はユダヤ人の絶滅を意味する、と述べた。1941年11月26日、外相リッベントロップはブルガリア外相との会談において、終戦のころにはすべてのユダヤ人がヨーロッパからいなくなっている。それは総統の不変の決意である、と発言した。

 

ヒトラーは1941年11月下旬までにヨーロッパからユダヤ人を一掃することを決断した。

 

 

 

 

ヒトラーは、ヨーロッパからユダヤ人をいなくすることを、ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させる、と表現している。問題はどういう方法で絶滅させるかであった。

 

少し時間を前に戻すと、マダガスカル構想というのがあった。ドイツ支配下にあるヨーロッパのユダヤ人を同島に運んで、厳重な管理のもと、時間をかけて「自然消滅」させるというものであった。この計画は1940年末当面断念することになった。しかしヒトラーは、どこか広大な地にユダヤ人を集団移住させ、消滅に追い込むという手法に執着し、1941年春までには、ロシアの奥地に運んでゆく構想を抱くに至った。このとき、ヒトラーは数か月後にソ連侵攻を開始することを決定しており、早期決着に自信を持っていた。ヒトラーの構想は次のようなものであったらしい。ソ連との戦争決着後、シベリアなどロシアの奥地にヨーロッパのユダヤ人全員を移住させる。脱出が困難な土地に囲い込み、厳しい自然環境と乏しい食糧とにより、凍死、病死、餓死などさせ、人口を減らしていく。生命力の強い者には苛酷な労働を課し疲弊死させる。男女を同居させず、同性のみの集団とし、新しい生命の誕生を阻止する・・・。ちなみにヒトラーは、ユダヤ人を苛酷な環境下に放り出し、苦しめるという考えが好きであった。1941年夏には、ゲッベルスに向かって、ユダヤ人をソ連との戦争決着後ロシアに送って、苛酷な気候で痛めつけてやる、と発言しているし、1942年春には、同じくゲッベルスに対し、ユダヤ人は寒冷な気候には抵抗力があるので、むしろ中央アフリカのような酷暑湿潤の地に送った方が生命力を減衰させられる、と言った。 

 

 

さてヒトラーは、ソ連との戦争決着後にヨーロッパのユダヤ人全員をロシアの奥地に運んでゆく構想を抱いていたのであるが、彼が1941年11月にヨーロッパからユダヤ人を一掃するための作業開始を決定したとき、直ちに大量のユダヤ人をロシアの奥地に運んでゆける見込みはなかった。ソ連との激闘が継続中であり、早期決着は見通せなかった。ロシアへの大量輸送でない、別の方法を生み出さねばならなかった。ヒトラーはそのとき、のちに彼が実際にヒムラーにやらせたこと、つまりポーランド東部に人をガスで殺すための施設をいくつか造り、そこへヨーロッパ広域のユダヤ人を運びこむ方法を予定していたと推測される。 

 

 

大量のユダヤ人を殺処分するための工場である絶滅収容所は1941年11月の時点で一つも存在していなかった。しかし、人をガスで殺す技術と実績は、総統官房とヒムラー率いる親衛隊の刑事技術研究所がすでに有していた。刑事技術研究所とは、人をもっとも効率よく殺すための技術を研究開発する組織である。ここに医師や科学者上がりの、殺人技術研究のプロがたむろしていた。精神障害者などを対象にしたいわゆる安楽死作戦は、総統官房の長であるブーラーがヒトラーの委任を受けて推進したが、このときヒムラーは、ブーラーのために刑事技術研究所の技術者を派遣した。反対にヒムラーが強制収容所の病人などを始末するときは、ブーラーの安楽死施設を借用した。安楽死作戦の殺害方法は、最初はモルヒネを注射したが、その後密閉した部屋にボンベ入り一酸化炭素を注入する方法となった。一酸化炭素を用いるこの方法自体、親衛隊の刑事警察研究所が開発したもので、それをブーラーが安楽死作戦のために採用したのである。人をガスで殺す事業において、ヒムラーの親衛隊とブーラーの総統官房は密接に連携していた。総統官房とはヒトラーの個人事務所とでも呼ぶべきもので、ヒトラーの一番身近で働く部署である。ブーラーはいわばヒトラーの秘書室長であり、ブーラーのやっている主なことをヒトラーが知らぬはずはない。安楽死作戦自体がヒトラーがブーラーに命じてやらせたものなのだ。 

 

 

ユダヤ人を大量に効率よく殺す方法を追求したのはヒムラーである。もちろん、成功の暁には自らの功績をヒトラーに売り込む算段であった。あるいは、すでにヒトラーから効率の良い大量殺害方法を開発するよう指示を受けていたのかもしれない。

 

ヒムラーはソ連域において支配下に入れた大量のユダヤ人の処理(つまり、殺す)方法に悩んでいた。それまでは射殺していたが、親衛隊隊員(ドイツ人)にやらせると、殺す数が尋常でないから、多くの者が精神的ショックを受けてしまうのである。親衛隊員の監督のもと、実際の射殺はリトアニア人やウクライナ人などからなる現地人協力部隊にやらせることが次第に多くなったが、射殺という方法自体がそもそも効率的でなく、短時間での大量殺害に適さなかった。

 

1941年8月中旬ヒムラーはソ連のミンスクでユダヤ人大量射殺を視察した。そこには親衛隊・特務部隊Bの隊長であるネーベがいた。ネーベはかつて親衛隊刑事警察の幹部で、先に述べた刑事技術研究所を創設した人物である。つまり以前はドイツにおいて効率的大量殺人の技術開発を主導し、今はソ連の地でユダヤ人大量殺戮部隊の指揮をしている人物であった。ヒムラーはこのときネーベに対し射殺でない別の殺人方法の研究を命じた。ネーベはまずダイナマイトの使用を試した。塹壕に精神病者を入れダイナマイトを爆発させたが、バラバラになった肉片が四散する惨状を示したので、実用に耐えないとした。次にネーベは精神病者を対象にガス殺実験を試みた。った。このためにネーベはドイツ本国の刑事警察研究所から一酸化炭素を使用した殺人技術に詳しい一人の化学者を呼んだ。ネーベは安楽死作戦で使用するボンベ入り一酸化炭素でなく、自動車エンジンの排出ガスを使うアイディアを持っていた。1941年9月下旬、両人は自動車エンジンの排出ガスを密閉した部屋に注入する実験を行った。実験は成功した。密閉した部屋の中の犠牲者は排出ガスに含まれる一酸化炭素により中毒死していた。ネーベは自動車排気ガスを使用する殺人技術を手に入れた。ネーベは遅滞なくこのことをヒムラーに報告したに違いない。ヒムラーは早速ヒトラーに報告したと推測される。

 

ツィクロン・ガス(シアン化水素ガス)を使った殺害実験も1941年9月にアウシュヴィッツ基幹収容所の地下室で行われた。ソ連兵捕虜600名と病気にかかった囚人250名が犠牲となった。ただこれは強制収容所の病気にかかった囚人の数を減らすことを目的にしたもので、ユダヤ人殺害を想定したものではなかった。

 

 

 

1941年10月13日、ヒムラー、総督府親衛隊・警察上級指導者クリューガー、ルブリン地区親衛隊・警察指導者グロボツニクの三者が会談した。総督府のユダヤ人を今後どうするかなどを話し合ったものと思われる。この会談から2週間余り後の11月1日、親衛隊の徴用したポーランド人労働者がベウジェッツの地で収容施設の建築工事を開始した。1941年12月、ヴィルトという親衛隊高官がベウジェッツに来て、工事の指揮を取った。1942年2月、自動車エンジンの排出ガスによるガス殺の試験が行なわれ、150名のユダヤ人労働者が殺された。1942年3月ベウジェッツでのユダヤ人大量殺害が始まった。ガリチアとルブリン・ゲットーのユダヤ人が最初の犠牲者であった。こののちグロボツニク管轄下の絶滅収容所として4月にソビブルが、7月にトレブリンカが稼働を開始した。ともにエンジンの排出ガスをガス室に導入する方式であった。ちなみにヴィルトなる人物は親衛隊少佐の地位にあり、総統官房次官のブラックの下で安楽死作戦に携わってきた、ガスによる殺人技術の専門家である。のちにこの男はグロボツニク所管の三つの絶滅収容所(ベウジェッツ、ソビブル、トレブリンカの三か所。ともにエンジンの排気ガスを使用)の監督官になった。

 

ちなみに最も多くのユダヤ人をガス殺した絶滅収容所であるアウシュヴィッツ第二収容所(ビルケナウ)は1942年5月に稼働を開始した。こちらはエンジンの排出ガスでなく、ツィクロン・ガスを使用した。1942年5月、アウシュヴィッツで2万人ものユダヤ人の大量処理に成功したとき、ヒムラーは喜び勇んで、総統司令部にいる党官房長のボルマンにそのことを電話した。ヒムラーはヒトラーが大量殺害技術の早期確立を熱望していることを知っていたから、その成功をボルマンを介してヒトラーに伝え、ほめてもらおうとしたのだ。

 

ヒトラーは安楽死作戦の実施過程において、一酸化炭素を使用した殺害方法を知っていた。自分が指示して自分の個人事務所である総統官房にその作戦をやらせているのだから、当然だ。ヒムラーからも自動車エンジンの排出ガスを使った殺害方法について報告を受けていたことは確実だ。1941年11月ヒトラーはヨーロッパからユダヤ人を一掃するための行動を開始することを決定したが、このとき、ガスを使った殺人技術を進化させたら、効率的な大量殺害が可能になると予測していたと考えられる。 

 

 

 

この辺で、いよいよまとめに入ることにする

 

1941年11月、ヒトラーの最大の関心事は、今やっているソ連との戦争と、近い将来予想される米英連合軍との戦争に勝つことであった。それらの戦いに勝つためには、勝つまでドイツ国民の戦争士気を保持しなければならず、さらには西ヨーロッパとポーランドにおける占領支配を安定させなければならなかった。ヒトラーはこれらの課題を達成するためには、ソ連とドイツ帝国とポーランドと西ヨーロッパからユダヤ人を一掃するする必要があると考えた。ヨーロッパのその他の地域からもユダヤ人を排除すべき理由があった。ヒトラーはヨーロッパ全域からユダヤ人を一掃する決心をした。 

 

 

地域によりそこからユダヤ人を排除すべき理由は異なっていた。

 

戦争の現場であるソ連のユダヤ人はソ連軍への協力者、情報提供者であるため無条件に抹殺すべき存在であり、すでに1941年の8月半ばより年齢と性別に関係のない無差別殺害が行われていた。

 

ドイツのユダヤ人は、第一次大戦末期にやったように、国内に厭戦主義、敗北主義を広め、国民の戦争貫徹の士気をくじき、さらにはドイツ人に対してナチ政府への反抗を扇動する存在であった。ドイツからの排除の緊急度は高かった。

 

ドイツとソ連の中間に位置するポーランドのユダヤ人巨大集団は、ソ連で戦うドイツ軍の背後の安定と、本国と前線との連絡経路の安全に対する危険要素であった。この地のユダヤ人は現在ゲットーに閉じこめてあり、多くの者は飢えにより疲弊していたが、その膨大な数が有する潜在エネルギーは脅威であった。飢えと疫病の流行により自暴自棄になった群衆が大規模な反乱を起こすようなことがあったら、その鎮圧には多大な労力がかかる。ゲットー脱出に成功した者が対独抵抗活動に身を投ずるなどの事態を未然に防止しなければならない。脱出した者の中には疫病保菌者も混じっているに違いない。ポーランドはソ連とドイツとの中間に位置する兵站と防衛上の要衝であるから、その地に疫病が蔓延しドイツ軍の行動が阻害されるようなことがあってはならなかった。この地のユダヤ人抹殺の重要度は高い。

 

ドイツが占領しているフランス、ベルギー、オランダなど西ヨーロッパ諸国にいるユダヤ人は、今すでにその地の現地人対独抵抗活動家と連携して対ドイツ抵抗活動を実行している。さらに住民に対し占領者ドイツへの非協力を扇動している。もし将来連合国軍のヨーロッパ大陸上陸があるとしたら、その地のユダヤ人は確実に連合国軍の協力者となる。自ら対独抵抗活動を行い、各国人民を対独抵抗活動へと煽動する。西ヨーロッパからユダヤ人を排除しなければならない。ヨーロッパの他の地域からもユダヤ人を排除すべき理由があった。

 

 

 

地域ごとにそこからユダヤ人を排除すべき具体的理由は異なっていた。しかしそれらの異なる理由の底流に、ナチの共通認識が存在していた。すなわち、ユダヤ人はドイツ民族の破滅を求めており、この戦争でのドイツの敗北を希っている、そのためにドイツの敵の協力者となり、反ドイツ活動に身を投じ、ヨーロッパ諸国民をドイツに反抗するよう扇動している、との根本認識があった。

 

 

 

ヨーロッパの地域ごとにその地からユダヤ人をいなくする個別の理由があった。しかし、複数の地域における個別の理由にもとづく対ユダヤ人行動が集まって、結果としてヨーロッパ全域でのユダヤ人殺害という形態をなすに至った、ということではない。ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させるというヒトラーの決定があって、その決定を基礎にヨーロッパ全域にわたるユダヤ人殺害行動が展開されたのである。もちろん、ヒトラーはその決定をなす時点で、個々の地域ごとにその地からユダヤ人を一掃すべき個別の理由があることを認識していた。むしろ地域ごとの個別の理由を最も具体的に認識していたのはヒトラー自身なのだ。地域ごとの個別の理由を認識した上で、ヒトラーはヨーロッパ全域でのユダヤ人抹殺を決断したのである。 

 

 

 

 

ここで読者諸氏は当然の疑問を抱かれることであろう。今まで述べられた理由でユダヤ人を殺したのだとしたら、子どもや赤子まで殺す必要があったのか、と。 

 

 

ドイツの支配下に入ったユダヤ人は年齢・性別にかかわらず基本的に全員殺された。殺されるのを先延ばしにされた者は、いた。ドイツ人は壮健な男性ユダヤ人の一部をすぐには殺さずにドイツのための労働力として利用した。労働力として利用された女性も少しはいた。壮健な男女の中から必要な数を選び、必要な期間生かしておいて働かせたのである。壮健であっても労働力として採用されない者はすぐに殺された。ナチの計画では労働力としてしばらく生かされる者も最後には殺されることになっており、実際にそうされた。大物ナチの一人が、しばらくの間労働者として生かされることを、死への旅路のつかの間の途中下車、と形容している。かくのごとく、ナチの支配下に入ったユダヤ人は一部の例外を除いて短期間のうちに殺された。ナチは子どもを労働力として期待しなかったから、支配下に入れたらなるべく早く殺そうとした。例外はあった。たとえばポーランドで最後に抹殺されたウッチ・ゲットーはドイツのために労働するゲットーであった。ここにはいくつかの工場があり、ドイツ軍などのために単純製品を生産していた。ここにおいては年長の子どもはしばらく労働者として生かされていた。しかし大人の労働者より先に殺された。大人の労働者も最後には全員が殺されるのだが。 

 

 

ナチが死に至らしめた子どもの数について一つの統計がある。この場合の子どもとは15才以下(16才未満)と考えてよさそうだが、1939年時点でヨーロッパにはおよそ170万人の子どものユダヤ人がいた。これらの9割近い約150万人がナチにより死に追いやられた。多くはガス殺だが、射殺やゲットーにおける餓死も少なくなかった。生き残っていた者はドイツ人による捕捉を逃れていた者で、フランスなどに多かった。ハンガリーのブダペストの子どもたちはナチの手中にあったが、殺される前に、大人とともにソ連軍により解放された。これらは例外でナチは捕捉した子どものユダヤ人を原則的に全員死に追いやった。 

 

 

ヒトラーにおいて、ヨーロッパのユダヤ人を一掃すべき理由が、戦争(今やっているソ連との、および近い将来予想される米英連合軍との戦争)に勝つため、ドイツ国内の戦争士気を維持するため、占領地の治安を維持するためなどにあったとしたら、大人のユダヤ人を排除すれば済むことではないのか。子どもまで皆殺しにしたのはなぜなのか。 

 

 

ソ連においてソ連側への協力者あるいは情報提供者として行動する者、ポーランドのゲットーで反乱を起こす者、西ヨーロッパなどドイツ占領地において対独抵抗活動を行ったり、現地住民に対し対独非協力や反抗を扇動する者、ドイツ国内において厭戦主義や敗北主義を広めようとする者、これらはいづれも、青壮老の違いこそあれ、大人のユダヤ人である。子どもは、ドイツが戦争に勝つことを妨害することはないし、ドイツの占領地で反ドイツ活動を行うことはないし、ドイツ国内において厭戦気分を広めようとすることはない。

 

 

地域別に見てみる。

 

 

ソ連においては、当初は軍の前進路にある都市の成人男性ユダヤ人の一部を殺して行った。その後パルチザンが出没する地域にあるユダヤ人集落の全員を殺すことになった。集落の男性ユダヤ人は当然全員殺されなければならなかった。女性と子どもについては、集落に残しておくと、そこに住居と食糧とがあることになり、それをパルチザンが利用することになるから、女性と子どもはどこかに移動させる必要があった。しかし移動させたらそれらを収容しなければならない。収容する施設と与える食糧と管理する手間が必要となる。ユダヤ人でない現地住民にそれをやらせることは無理なので、その費用と労力とはドイツの負担となる。そんな無意味なことはしたくないので、女と子どもを一緒に殺すことにした。大人の女だけ殺して子どもを残しても、それを扶養する費用と労力とは依然ドイツの負担になるので、子どもだけは生かしておくという選択肢はなかった。ほどなく、ドイツ人はソ連における占領地全域の農村地帯からユダヤ人を一掃することを決め、女性と子どもを含むユダヤ人全員殺害を開始した。殺し切れなかった分は都市に設置するゲットーに集中して管理することになった。都市のゲットーには従来からの都市住民と地方部から集められたユダヤ人が混在することになった。ドイツ人はこれらユダヤ人についていつまでも生かしておくつもりはなかった。ドイツのために働く大人、具体的にはドイツ軍兵士のための製品を生産させたり、ドイツ軍のための土木工事などに使用する労働力以外は可能な限り早期に始末してしまうつもりであったし、実際にそうした。労働者として利用するユダヤ人も最終的には殺してしまう計画で、これも計画通り実行した。女性と子どもと労働者として登録されなかった男性は無条件に殺された。

 

ヒトラーは1941年の秋までには、ソ連において支配下に入れたユダヤ人をいずれ全員殺してしまうことを決心していた。ソ連側への協力行動を行うのは大人だから、大人を殺せば危険分子はいなくなるのだが、子どもを生かしておくとそのための費用と手間が必要になるからだ。費用の主なものは子どもに与える食料であり、労力とは世話をする手間だ。ソ連の現地住民に親を失ったユダヤ人の子どもの世話をさせるなどということも考えられなかった。そんなことを現地住民に強要すれば占領者であるドイツ人への反感を増大させるだけだ。親という扶養者を失った子どもをドイツの費用と労力とで生かしておくなどということはヒトラーにとって何の意味もなかった。ヒトラーの頭脳に、大人は殺すが、子どもは可哀そうだから生かしておこうなどという感情も存在しなかった。かくしてヒトラーにおいて、敵側への協力者である大人のユダヤ人全員殺してしまうことを決心したとき、それは自動的に子供を含むユダヤ人全員を殺すことにつながった。繰り返しになるが、その方が大人だけ殺して子どもを生かしておくより経済的であるからだ。その経済観念を乗り越えて子どもを生かそうとするのは、子どもを殺すのは可哀そうと感じる情か、あるいは知性としての人道観念しかない。憐憫の情と人道観念のいずれも有しない者は経済的合理性のみにもとづき行動することができる。ヒトラーがそうであったし、ナチ上層部の多くがそうであった。 

 

 

ドイツ人はポーランドを占領してまもなくその地のユダヤ人をゲットーに入れ始め、短期間のうちに当地のユダヤ人のほとんど全員をゲットーに収容してしまった。ナチの手によりゲットーに押し込められたポーランドのユダヤ人が再びゲットーの外に解放されることはなかった。ゲットーの住民は何班かに分かれて、ガス室またはガス・トラックを運用する絶滅収容所に向けて、鉄道貨車やトラックでゲットー外に運び出された。ナチは経済的合理性のみに基づき運び出す順番を決めた。つまり「無駄飯食い」の度合いの強い者から先に運び出した。すなわちドイツのための労働をせず、本来ドイツのために活用すべき食糧を無駄に費消している者から先に。最初はドイツにとって何の役にも立っていないとされた大人とその家族。基本的に大人(父親、母親)と子どもが一緒に運び出された。次に、ドイツにとって労働者として役に立っていた大人とその家族。これは大概、母親と子どもが先で、役に立っていた者である父親があと。最後に、ドイツ人からゲットーの管理を託されていた者とその家族。これは大概一緒。これで全員いなくなる。ゲットーは空になった。

 

ゲットーの中には、労働するためのゲットーと指定されているものもあった。大人と年長の子どもの多くがドイツ軍の使用する単純製品などの製造に携わっていた。ドイツ人はこの種のゲットーも、自分たちがその地を撤退する際に空にした。まずは、働いていない大人(年寄が多い)と年少の子ども、次に、働いている年長の子ども、最後に、働いている大人。

 

こうして、ドイツ人は、ポーランドにおいて、自らの支配下に入ったユダヤ人のほとんど全員を都市のゲットーに押し込め、そのほとんどすべてを殺してしまった。繰り返しになるが、生き残った者は、収容所で働かされているうちにソ連軍がやって来て、ドイツ人がユダヤ人を殺す間もなく逃げだしたため生き延びた者や、隠れ住み運よく解放を迎えた者など、わずかの数にとどまった。ポーランドで生き残ったユダヤ人のほとんどすべては大人で、子どもは基本的に全員殺された。 

 

 

ドイツのユダヤ人は原則的に家族単位でソ連におけるドイツ占領地やポーランドに移送された。家族として移住し、到着地において開拓や労働に携わるという名目であった。ヒトラーは、輸送先がソ連という寒冷地であれば弱い者から先に死んでゆくことも、ポーランドのガス室であれは労働者として役に立つもの以外はすぐに殺されることを知っていた。というより、そうせよとの命令を、ヒムラーに対し下したのは彼自身なのである。明示、示唆、希望など、どのような形であったかは別として。子どもについては輸送せずにドイツに残しておくなどという思考はヒトラーに無縁であった。そんなことをすれば、扶養のための施設と食料が必要になるし、世話する労力もかかる。また子供が国内にドイツに残されていたら、ドイツ国民がいつまでもその子の親のことを忘れず、あの子の親は今どうなっているのかと話題になり、政府にとって好ましからぬ憶測も呼ぶ。そもそもヒトラーには、ことユダヤ人に関し、大人だけ殺して子どもは生かしておく理由そのものが思いつかなかったのである。 

 

 

フランス、オランダ、ベルギーなど西ヨーロッパのユダヤ人は、ドイツからの移送に似て家族単位で東方に移送された。ドイツのユダヤ人の場合と同様、大人だけ運んで子供を残しておくデメリットはあるが、メリットはなかったからだ。その地の政府に対し、残された子供たちの扶養を要請するわけにもいかなかった。家族が長旅の末着いた先は、高い煙突が煙を吐き出している大きな施設であった。彼らの運命についてはすでに述べた。

 

 

 

戦争の勝利と、ドイツ国民の戦争士気の維持と、占領地の安定確立を妨げる存在は、基本的に成人男性ユダヤ人であった。詳しく言えば、ヨーロッパ全域において青壮年の男性と男性並みに活動的な若い女性、ドイツにおいてはこの両者に扇動者として行動できる老人が加わった。これらを排除することは無条件であった。これ以外の老人一般、女性一般、子どもについては、妨害分子の排除という意味で殺したのでなく、経済的合理性すなわち生かしておくための費用と手間を省くために殺したのである。

 

 

 

ヒトラーは1941年11月下旬までにヨーロッパ全域から成人男性ユダヤ人を一掃する決定をした。それは今やっているソ連との戦争と、この先予想される米国が加わった形でのヨーロッパの戦争に勝つためであった。それに付随して、ドイツ国民の戦争貫徹への士気を損壊させようとする存在を排除するためであり、ヨーロッパにおけるドイツの占領支配の安定を脅かす存在を排除するためであった。女性と子どもについては、生かしておく意味を認めず、逆に生かしておくデメリット、つまり生かしておくための費用と労力を避けるために始末する必要があった。ここにおいてヨーロッパ全域から成人男性ユダヤ人を取り除く決定はヨーロッパ全域からすべてのユダヤ人を消滅させる決定に自動的につながった。

 

 

 

ヒトラーは子どものユダヤ人を殺す意味について特に言及していない。ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させるつまりその全員を殺すことの意味には幾度となく触れている。

 

いくつかを挙げると、ユダヤ人全員を殺すことを、ユダヤ民族に民族としての責任を取らせると形容している。その責任とは、ユダヤ民族は第一次大戦と今の大戦を起こした張本人であり、その結果二度にわたり膨大な数のドイツ人の大人と子どもが命を落としている。その責任を民族としてのユダヤ人に、つまりユダヤ人全員に取らせるのだと。

 

また彼はヨーロッパのユダヤ人を絶滅させるについて、はじめにユダヤ民族がドイツ民族を絶滅させようと企ててきたのであるから、返り討ちにしてやるのだ、とも言っている。

 

さらに、今回の大戦が起きる前に、自分はユダヤ人に対して、過去一回世界大戦を起こしたことに物足りず、再び世界大戦を起こすようなことがあれば、ヨーロッパのユダヤ人は絶滅されることになるだろうと警告した。ユダヤ人はそれを軽視して今回の世界大戦を起こしたのであるから、その警告通り絶滅させてやるのだ、とも言っている。

 

 

 

すこしわき道にそれるが、ヒトラーの思想においては、前回の大戦も今回の大戦も、イギリスとアメリカいるユダヤ人が英米両政府に働きかけて起こしたもので、その目的はドイツ民族とその国家を破滅させることにある、ということになっている。ユダヤ人がドイツ民族とその国家の破滅をめざす、彼なりの理由はこうだ。ユダヤ人は世界支配を求めており、すでに米英は手中にした。残るはドイツのみでこれの膝を屈せさせれば世界支配は完成する、ヨーロッパ大陸の戦争に関係のない海向こうの英米がヨーロッパ大陸の戦争に介入してドイツを敗北させようとする理由はこれなのだ。その証拠として、チャーチルのスポンサーにユダヤ人がおり、ローズヴェルトのブレーンにユダヤ人がいることを挙げている。いたことはいたらしい。第一次大戦でアメリカをヨーロッパの戦争に参戦させたウィルソンに対しても、モルガン財閥などユダヤ系の影響力は存在したらしい。ヒトラーはこのことにも言及している。前回と今回のドイツに対する世界規模の戦争を出来させた張本人がユダヤ人だとするヒトラーの確信は生涯の幕を引くまで揺らがなかった。

 

 

 

ヒムラーは子どもを殺すことについて、その意味を親衛隊幹部や国防軍の将軍たちに向かって何回か言明している。自分は自分が親衛隊指導者としてドイツ国民に対して負っている責任を果たすためにそれをやった、と。つまり、子どもを殺さずに生かしておいたら、成長したのちかならずドイツ民族に対し復讐しようとする。私は自分の責務として「将来の復讐者」を抹殺したのだ、と。ドイツの都市への無差別爆撃にも触れている。イギリスにいるユダヤ人が同国政府をそそのかしてそれをやらせ、ドイツ人の子どもたちが多数死んでいるのであるから、こっちもユダヤの子どもに対して同じことをしているのだ、と。

 

親衛隊の何人かの幹部も戦後の国際法廷で、将来の復讐者の出現を防ぐためにそれをやったとか、イギリス人もドイツへの爆撃で多くの子どもたちを殺したではないか、自分たちだけが子どもを殺したわけではない、などと発言している。 

 

 

 

ヒトラーにおいて、自分の宿望の実現を妨害する者に対する憎しみが大量殺戮を招いたという側面も。

 

ヒトラーの最大の夢は自分がヨーロッパの支配者になることであった。これは宿望とも呼びうるものであった。政治家としての活動を開始したころにはすでにこれを将来の夢として抱き始めていたらしい。政権を獲得しドイツの支配者となったとき、彼にとってこれは実現可能な夢となった。ドイツの支配者となった数年後には、ベルリンをヨーロッパの首都にふさわしい巨大都市にすべく、その中心部の都市計画を作成させている。凱旋門、官邸、議事堂、国民集会場などが配置されているが、驚くべきはそれら建造物の途方もない巨大さだ。ヨーロッパの首都どころか人類の首都と呼んでもいい。ヒトラーはこの新しいベルリンの縮尺模型をつくらせ、しばしばそれを眺め入った。この場所からヨーロッパの主人としてヨーロッパ諸民族を支配する自分を想像していたのであろう。

 

ところが、この夢の実現を妨害するのが、ヨーロッパとアメリカにいるユダヤ人だった。すでに西ヨーロッパは支配下におさめ、今やっているソ連との戦争に勝てばこの夢は実現するのであった。ソ連をやっつければ、イギリスはヨーロッパ大陸の戦争に介入する基盤を失い、大陸の戦争から手を引く。アメリカもイギリスが手を引いた大陸の戦争に介入することはない。ウラル山脈からポルトガルまでのヨーロッパ大陸はドイツのものとなる。

 

そうであるのに、1941年6月にドイツとソ連との戦争が開始されるや、7月にはイギリスがソ連と相互援助条約を結んだ。相互援助と言っても実際はイギリスからの一方的援助であった。さらに11月上旬にはアメリカが武器貸与法をソ連に適用することになって、ソ連の必要とする軍需物資の膨大な量が米英からソ連に流れ込むことになった。これをやったのはチャーチルとローズヴェルトだ。ヒトラーの信念において両人にそれをやらせたのは英米にいるユダヤ人であった。ユダヤ人と両人は主人と家来の関係にあるからだ。ユダヤ人の牛耳る両国のマスコミも両国民に向かってドイツへの憎しみと徹底的対決を煽っている。アメリカとイギリスとをソ連に対する軍事援助に走らせ、ドイツを敗北させんとしているユダヤ人。ソ連との戦争に敗れれば、ドイツ国家は破滅し、ヨーロッパの指導者にならんとするおのれの宿願は無きものとなる。ユダヤ人憎し。ユダヤ人の一番嫌がることをしてやる。つまり種族として絶滅させてやる。1941年11月にヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅させる決心をしたときのヒトラーにはこのような感情も存在したのであろう。だからその時点で、戦争に勝つため、国内の戦争士気の維持のため、占領地の治安確立のためにユダヤ人を抹殺するというプラグマティックな側面と併せて、憎しみという感情から子どもを含めてできるだけ多くのユダヤ人を殺してやるという側面もあったわけだ。ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅させる意義の第一が前者にあったことは言うまでもないが。その後アメリカがこの戦争に参戦することになり、ドイツの諸都市に対する英米の空爆が激しさを増し、一番肝心のソ連との戦争が劣勢に傾きだすようになって、ヒトラーのユダヤ人憎しの感情はいよいよ高まり、一人でも多くのユダヤ人を殺したいとの欲求は彼の脳内において力を増した。それでもヨーロッパのユダヤ人を殺す第一義は依然として先に述べたプラグマティックな目的にあった。ドイツとポーランドとソ連のユダヤ人を殺し続けたのもその目的のためだったし、ナチの行った最後のユダヤ人巨大集団抹殺であるハンガリー・ユダヤ人の場合もそうだった。 

 

 

 

欧米の学者の何人かが、ヒトラーの目的には二つあって、一つはドイツによるヨーロッパ支配を実現にすること、いま一つはヨーロッパからユダヤ人を抹殺することであった、などと書いている。そして、ヒトラーは、戦争に勝ち目がなくなり、ヨーロッパ支配の実現は不可能と確信するに至って以降、残ったもう一つの目的、すなわちヨーロッパのユダヤ人の抹殺に全力を傾けることとなった、などと続ける。幼稚な論理だ。まずヒトラーの二つの目的を並列的な価値として位置付けているのが安易だ。この作文で述べてきたごとく、二つの目的は、ヒトラーにとって同等の価値を有するものではない。前者こそがヒトラーにとって最大、究極の目標であった。ところで、ヒトラーが、この戦争は負け、と完全に観念したのはいつなのか。1945年1月アルデンヌ攻勢を中止した、その頃だ。同時期、ヒトラーが最後の頼みとする新兵器が戦争の形勢転換には力不足であることも判明していた。彼は、万事休すを実感した。それでは、それ以降ヒトラーはユダヤ人抹殺に狂奔することになったのか。そんなことはない。ユダヤ人の大量殺戮は1944年夏にハンガリー・ユダヤ人の大部分を抹殺し終えたときに完了していた。そのときには、ポーランドとソ連西部のユダヤ人巨大集団は絶滅せられていた。ドイツ帝国のユダヤ人も消え失せていた。ヒトラーは戦争の敗北を確信して以降、ユダヤ人を殺すことに興味を示さなかった。そもそもそのときにはヨーロッパ・ユダヤ人の大部分は彼の計画通りすでに消滅していたのである。 

 

 

 

いくつか付記する。

 

 

ナチの信念すなわちナチズムの根幹は二つの思想から成り立っている。

 

一つは、人は平等でないとする思想である。すべての人は人として同じ価値を持つなどという思想をナチは軽蔑する。人には優れた者と劣った者がある。個人の間でも、民族の間でも、人種の間でも、優れるものと劣るものとがある。優れた個人が劣った個人を支配するのは当然であり、優れた民族が劣った民族を支配するのは当然である。これは人種間においても同様である。

 

いま一つは反ユダヤ主義である。ナチは、ユダヤ人のことを下等人間と呼び、時には人でない非人間と位置付けた。悪魔に子孫にしてしまうこともあった。ユダヤ民族は劣等の存在ではあるが悪魔的な力を有している。このユダヤ民族は世界支配を目指しており、今はその最終段階にあるとする。全民族中最も優れた民族はドイツ民族であるが、ドイツ民族がユダヤ民族の軍門に降れば、ユダヤの世界支配は完成する。また、両民族は、やるかやられるか、どちらかが生き残ったならどちらかが死に絶えるの関係にあり、共に地上に生存することはできないとする。 

 

 

 

ナチは、ドイツ人がユダヤ人を不倶戴天の敵として憎むことを美徳とし、奨励した。ドイツ国民は「憎悪の感情を覚醒」させなければならなかった。一つの例がある。ヒトラーに重用される側近の妻がアムステルダムで数百人のユダヤ人女性が警官に連行されるのを目にした。女性たちのその後の運命を予想した彼女は、ヒトラーを囲む座談の場で、ドイツのそのような行為について疑問を呈した。その言葉に強い不快を感じたヒトラーは言った、あなたは憎むということを学ばなければならない・・・。

 

ナチは、ユダヤ人が今までドイツ人に与えてきたさまざまな苦しみを想起し、それに復讐しようとする意志についても、大いによしとした。1938年11月にドイツで起きたユダヤ人に対する暴力行動(水晶の夜)でナチ党員がユダヤ人を殺したが、ユダヤ民族に対する憎悪や復讐心からそれを行ったと判定され処分されなかった。一方騒動の中で婦女暴行した党員は個人的欲望から行ったとして処分された。1939年にポーランドで親衛隊隊員が民間ユダヤ人を殺したが、ユダヤ人が過去にドイツ人に危害を与えたことに対する憎しみと怒りがもたらした行為として大赦された。

 

 

 

 

ドイツ人がとんでもない連中を選んでしまった、と気づいたときは遅かった、という話。

 

ヒトラーが首相の座に就くきっかけとなった選挙において、ナチ党に投票した人は全体の1/3であった。ナチに投票した人もしなかった人も、ナチが反ユダヤの思想を有していることは知っていた。当たり前だ。反ユダヤ主義はナチの大きな売り物のひとつだったのだから。ナチは政権に就くと、反ユダヤ政策を次々に打ち出した。その一つとして高収入をもたらす良い職業からユダヤ人を追放したが、これについてはドイツ人に異論はなかった。しかしその後、ユダヤ人の外出時間を制限し、ユダヤ人立ち入り禁止区域を設け、ユダヤ人だけが住む住宅にまとめ、外出時に胸に黄色い星マークをつけさせるなどしだしたとき、ドイツ国民の多くがあの人たちはここまでやる気だったのか、と驚き困惑したに違いない。このようなことはやるべきでないと感じた人も多かったに違いない。しかしすでに遅かった。そのときのドイツは、政府のやることに抗議の声を挙げたりすることのできるような国家ではなくなっていた。そのような真似をしたら、すぐさまゲシュタポが飛んできて連行される。しばらくして帰って来た時には、面相が変わり、無言のうちに視線を宙に遊ばせる抜け殻人間になってしまっている。だから、ドイツ人はその後ナチの対ユダヤ人行動がますます過激になり、最後には東の遠方に運んでゆくようになっても、何も言わなかった。少なからぬ割合のドイツ人が東方に連れ去られたユダヤ人たちの運命を正しく推測していた。しかし信頼できる友人間のひそひそ話とする以外に、それを口にすることのできる国家ではなくなっていた。 

 

 

 

 

ドイツのユダヤ人の多くが、特にインテリの多くが迫害の中にあって、ナチをサディストと定義している。ヒトをいたぶることに快楽を感じ、いたぶられた者が苦しむ姿を見ることにさらに強い快楽を感じるのが、サディストだ。ドイツのユダヤ人のほとんど全員が、自分はドイツあるいはドイツ人に対し、何一つ悪いことをしていない、と思っていた。(その通りだ。ただ良い職業に就き、収入の高い者が多すぎた)。それなのに、ナチはドイツの支配者となって以後、次から次へと執拗に、手を変え品を変え、自分たちをいたぶり続ける。そのいたぶりが時間の経過とともにエスカレートする。ユダヤ人も、はじめの頃は、ナチのすることの目的がわかるような気がした。この者たちは、ユダヤ人がドイツにおいて所有する、職業、地位、財産を奪いたいのだ、物質的欲求がなせるわざなのだ、と。ところが、住んでいる家の玄関に「ユダヤ人の家」という印を付けさせられたり、住んでいる家を取り上げられ、ユダヤ人だけが住む住宅にギューギュー詰めにされたり、胸に黄色のユダヤの星記章をつけさせられたりしたときになると、ナチの目的の見当がつかなくなった。だからドイツのユダヤ人の多くは、ナチはユダヤ人をいじめること自体を楽しんでいる、つまりサディストと定義したのだ。ナチの中にユダヤ人をいじめることに快楽を感じた者がいたことは確かだか、多くはべつに快楽を感じることもなくユダヤ人政策に関与した。党の上級にある者は思想あるいは理論に基づきユダヤ人政策を立案し、下級にあってその政策を実行する者は職務としてそれを行った。ヒトラーも、ヒムラーも、ハイドリヒも、冷血ではあったがサディストではなかった。大物ナチの中に、本物のサディストとそれに近い者が何人かいるが、ここに書く意味はない。

 

 

 

 

 

 追記

 

(2017年6月19日記入) 

中東欧史とホロコースト史を専門とする、アメリカのティモシー・スナイダー博士が書かれた本を遅ればせながら読んだ。一つは「ブラッドランド」、いま一つは「ブラックアース」。前者は筑摩書房、後者は慶応義塾大学出版会から邦訳が発行されている。「ブラッドランド」には論文全体の一部としてホロコーストが言及され、「ブラックアース」はホロコーストそのものに焦点を絞っている。ホロコースト研究に画期的視点を導入しているとの書評を目にしたので読んでみたのだが、巷間騒がれているほどの目新しい観点は見当たらなかった。ただし、エピソードが豊富なので、興味深く感じる読者は多いと思われる。 

 

「ブラッドランド」にかくなる趣旨の記述がある―(1941年12月頃)軍事情勢に変化が生じ・・・・・・、ソ連・ユダヤ人の虐殺がエスカレートした。これはヒトラーにとってユダヤ人の排除そのものが戦争の目的になってしまったことを表している、云々。 

 

「ブラックアース」には次のごとき文章がある―ナチスの観るところ、人間以下の存在が住む特定の地域の植民地化が、人間とはいえぬユダヤ人の支配からこの惑星を解放することへと最優先順位を譲ることは、誰にも説明の要がなかったのだ、云々。

 

わかりやすく言い換えると、(1942年初頭)下等人間であるスラヴ人が住むソ連を植民地化することより、非人間たるユダヤ人の支配から地球を解放することを優先する方向となるのは、ナチ上層部にとって自然なことであった。

 

わたしのこの作文「ヒトラーなりの理由」をここまで読んでくださった諸氏は、博士のこれら見解をいかに評価されるのであろうか。 

 

 

 

(2017年6月28日記入) 

ナチによるユダヤ人大量殺戮は、ユダヤ人の消費する食糧が狙いだった、とする学説がある。確かに、大量殺戮が開始された時期、ドイツ本国とドイツ国防軍は食糧不足に悩まされていた。その時期、ポーランドとソ連のゲットーには合わせて二百数十万のユダヤ人がいたし、ハンガリーにも70万ほどいた。(ヒルバーグ氏の著書によれば)ドイツ当局は、1944年6月に、ハンガリーから四十数万人のユダヤ人をアウシュヴィッツに移送し終えたとき、ハンガリー政府に対し、その数のユダヤ人が消費するのに相当する量の食糧をドイツに輸送するよう要求し、ハンガリー政府はこれに応じた。

 

当時、ドイツ本国(旧ライヒ)のドイツ人人口はおよそ6000万だった。ドイツとドイツ支配下にあるポーランドとソ連のユダヤ人の消費する食糧の量はドイツ人の消費量に対し比較にならないほど少量だったが、それでもそれをドイツのものとすれば、ドイツ人と国防軍の兵士が口にするパンの量はわずかでも増えるわけだ。

 

確かに、1942年後半以降、ソ連、ポーランド、フランスなどからドイツに輸送する食糧の量は増えている。しかしそれは、それらの地にある人口全体が消費する食糧の一部をドイツが自らのものとした結果であって、そこにいたユダヤ人を抹殺したことが輸送量増加の第一の原因ではない。量の増加に少しは役立ったのだろうが。

 

ドイツ人はソ連に侵攻開始してすぐさま、遭遇したユダヤ人男性の一部を殺し始めている。この時期、ドイツ人はソ連との戦争の早期決着にいまなお自信を有しており、国防軍は現地で使用する食糧がこのさき不足することなど心配していなかった。

 

ユダヤ人大量殺戮は、ドイツの抱えていた食糧不足の解消にいくらかは役に立ったのであろうが、ヨーロッパからユダヤ人を消し去ろうとする第一の理由は、この作文に記したように、別にあった。

 

 

 

(2017年6月28日記入) 

我が国おいて高い評価を受けている学者さんが、ハンガリー・ユダヤ人のアウシュヴィッツ収容所への移送は、労働力目当てであった、と書いている。確かに、収容所に到着した者のうち、労働力として利用可能な者は、高い確率でそうされた。

 

1944年春、ドイツは戦闘機工場の新設を計画しており、その建設工事に大量の労働力を必要としていた。軍需省はそれをヒトラー本人に相談した。ヒトラーは、この先アウシュヴィッツに到着することになるユダヤ人のうち、労働に適する者を、その目的に使用することを承認した。

 

先に、一部の例外を除いたハンガリー・ユダヤ人全員のアウシュヴィッツ移送が決定されていて、その中から、労働に適する者を労働力として使用することになったのであり、労働力として利用するために、ハンガリー・ユダヤ人の全員移送を企図したわけではない。ハンガリー・ユダヤ人の全員移送を決定した、ヒトラーなりの理由はこの作文に書いた。

 

 

 

(2017年9月13日記入) 

ヒトラーはユダヤ人の女性と子どもを殺す理由について特に言及していない。ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させるつまりその全員を殺すことの根拠には幾度となく触れている。

 

いくつかを挙げると、ユダヤ人全員を殺すことを、ユダヤ民族に民族としての責任を取らせると形容している。その責任とは、ユダヤ民族は第一次大戦と今の大戦を起こした張本人であり、その結果二度にわたり膨大な数のドイツ人の大人と子どもが命を落としている。その責任を民族としてのユダヤ人に、つまりユダヤ人全員に取らせるのだと。

 

また、はじめにユダヤ民族の方からドイツ民族を絶滅させようと仕掛けてきたのであるから、返り討ちにして、反対に絶滅させてやる、とも言っている。

 

さらに、今回の大戦が起きる前に、自分はユダヤ人に対して、過去に一度世界大戦を起こしたことに物足りず、再び世界大戦を起こすようなことがあれば、ヨーロッパのユダヤ人は絶滅されることになるだろうと警告した。ユダヤ人はそれを無視して今回の世界大戦を起こしたのであるから、その警告通り絶滅させてやるのだ、とも言っている。 

 

ヨーロッパ・ユダヤ人の全員を消滅させる理由として、ヒトラーはこのように説明している。しかし、筆者にはこの理由付けは観念的に過ぎると感じられる。ヨーロッパのユダヤ人には、大人もいれば子どももおり、男もいれば女もいる。住んでいる地域も異なる。その区別に触れず、一挙に全員殺害の根拠を述べているのである。筆者の感覚ではその辺がいかにも不自然である。ヒトラーは最初から全員を平等的に排除したかったのだろうか。排除する必要の度合いに差はなかったのだろうか。 

 

筆者の見解はこうだ。すなわち、成人男性(正確には、活動的な成人女性、活動的な高齢男性も含まれる)を消滅させる理由とその他の者(女性一般、子ども、老人)を消滅させる理由は異なっていた。成人男性を消滅させる理由と、その他の者を消滅させる理由とは異なるものであったが、前者を消滅させる決定と後者を消滅させる決定とが、ヒトラーにおいて同時に下され、結合した結果、ヨーロッパのユダヤ人全員の消滅すなわち絶滅を目指す行動となった、と。

 

成人男性は、ドイツに敵対する危険分子として排除の対象とされ、女性一般、子ども、老人は、それらの者を生かしておくために必要な、食糧をはじめとする経済支出を避けるために抹消の対象とされた。そしてヒトラーにとって、成人男性を抹殺することとその他の者を消滅させることのいづれが重要であったかを考えるとき、比較を絶して前者が重要である。成人男性を抹殺することは、ユダヤ人を絶滅させる行動の本義であり、絶対的主目的である。その他の者を消滅させるのは副次的あるいは付随的行為に過ぎない。 

 

ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させるについてヒトラーが掲げた3つの理由は、彼の本心そのものであり、何かしらの打算に発した作り話ではない。しかしやや観念的である。一方、筆者が推測する2つの要素からなる理由は実際的なものである。しかし両者は相矛盾するものでなく、両立し併存している。実際的理由を下部構造に、観念的理由を上部構造に譬えることも可能か。

 

 

 

私の作文を最後まで読んで頂いたことに感謝申し上げます。私の推論に誤りを感じられた方も多かろうと思います。その他どのようなご意見でもお聞かせいただけましたら幸いです。このホームページのトップ゚に表示された、お問い合わせ、をご利用ください。誠意をもってご返事いたします。 

 

 

 

 

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アントニー・ビーヴア「スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943 

稲子恒夫「ロシアの20世紀-年表・資料・分析」 

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ダグラス・ブリンクリー編「ニューヨーク・タイムズ」が見た第二次世界大戦(上)(下)」 

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三野正洋「ドイツ軍の兵器 比較研究-陸海空軍先端ウェポンの功罪」 

パウル・カレル/ギュンター・ベデカー「捕虜 誰も書かなかった第二次大戦ドイツ人虜囚の末路」 

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アルバート・マリン「ヴェトナム戦争  象VS虎」 

吉澤南「ベトナム戦争-民衆にとっての戦場-」 

石山昭男「ベトナム解放戦史」 

三野正洋「アメリカはなぜ勝てなかったか」 

 

 

グイド・クノップ「ヒトラーの共犯者(上)(下)」 

同       「ヒトラーの親衛隊」 

同       「ヒトラーの戦士たち」 

同       「ホロコースト全証言  ナチ虐殺戦の全体像」 

 

ハインツ・ヘーネ「髑髏の結社SSの歴史<上><下>」 

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ルドルフ・ヘス「アウシュヴィッツ収容所」 

マルセル・リュビー「ナチ強制・絶滅収容所  18施設内の生と死」 

ニコ・ロスト「ダッハウ収容所のゲーテ」 

ギッタ・セレニー「人間の暗闇-ナチ絶滅収容所長との対話」 

長谷川公昭「ナチ強制収容所 その誕生から解放まで」

 

 

 

藤野幸雄「<新潮選書>悲劇のアルメニア」 

佐藤信夫「新アルメニア史」 

デーヴィッド・チャンドラー「ポルポト 死の監獄S21-クメール・ルージュと大量虐殺」 

山形浩生「ポルポト ある悪夢の歴史」 

土生長穂/小倉貞男/ムン・ギョン・ス訳「カンボジア現代史」 

ジョン・マン「チンギス・ハン その生涯、死、そして復活」 

S.ランシマン「十字軍の歴史」 

コリン・ウィルソン「世界残酷物語[上]」 

秦郁彦/佐瀬昌盛/常石敬一「世界戦争犯罪事典」

 

 

ジョルジュ・ルノーテル「ナントの虐殺」 

森山軍治郎「ヴァンデ戦争-フランス革命を問い直す」 

井田信宏「世界革命物語」

 

 

エドワード・ラジンスキー「赤いツァーリ(下) 

アレクス・ド・ジョンジュ「スターリン」 

亀山郁夫「大審問官 スターリン」 

産経新聞・斎藤勉「スターリン秘録」 

ルドルフ・シュトレビンガー「赤軍大粛清」 

アン・アプルボーム「グラーグ-ソ連集中収容所の歴史」 

ソルジェニーツィン「収容所群島1」 

 

 

ブライアン・モイナハン「ロシア  100年の真実」 

ツヴィ・ギテルマン「ロシア・ソヴィエトのユダヤ人 100年の歴史」 

黒川裕次「物語 ウクライナの歴史」 

フェリクス・ティフ「ポーランドのユダヤ人  歴史・文化・ホロコースト」 

ハイコ・ハウマン「東方ユダヤ人の歴史」

 

 

黒川知文「ユダヤ人迫害史」 

シーセル・ロス「ユダヤ人の歴史」 

ポール・ジョンソン「ユダヤ人の歴史(上)(下)」 

イラン・ハレヴィ「ユダヤ人の歴史」 

ノーマン・F・カンタ―「黒死病  疫病の社会史」 

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ヤコブ・カッツ「ユダヤ人とフリーメーソン  西欧文明の真相を探る」 

小酒井澄「ユダヤ人 復讐の行動原理」 

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ウワディスワフ・シュピルマン「戦場のピアニスト」 

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ハヴァ・プレスブルゲル「プラハ日記」 

ユリウス・フチーク「絞首台からのレポート」 

早乙女勝元編「母と子で見る27  ブラハは忘れない」 

同     「母と子で見る5   ターニャの詩(うた)」

 

 

 

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アラン・ブロック「対比列伝 ヒトラーとスターリン(第2巻)(第3巻)」 

ジョン・ルカーチ「ヒトラー対チャーチル」 

マーティン・ハウスデン「ヒトラー ある<<革命家>>の肖像」 

ハラルト・シュテファン「ヒトラーという男」 

トラウデル・ユンゲ「私はヒトラーの秘書だった」 

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ロータル・マハタン「ヒトラーの秘密の生活」 

マルタ・シャート「ヒトラーの女スパイ」 

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